銃弾でお尻にケガ!?ハリルホジッチ監督来日までの波乱の半生を語る (1/3) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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銃弾でお尻にケガ!?ハリルホジッチ監督来日までの波乱の半生を語る

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AERA STYLE MAGAZINE (アエラスタイルマガジン) 2015年 9/30号より 撮影:川口賢典

AERA STYLE MAGAZINE (アエラスタイルマガジン) 2015年 9/30号より 撮影:川口賢典

 サッカー日本代表監督、ヴァイッド・ハリルホジッチ氏の単独ロングインタビューを、『アエラスタイルマガジン』誌が実現。戦争で奪われた穏やかな日々、無一文から日本代表監督就任までの波乱万丈の道のり、勝ちに恵まれずに向けられた批判の矛先……。ニッポン国民が注目する“情熱の知将”が、アエラスタイルマガジンに語ったこととは――?

*  *  *

「私は、ボスニア・ヘルツェゴビナの人口5000人ほどのヤブラニツァで生まれました。6人兄弟の4番目でした。いまはもうちょっと人口は増えていますが、首都サラエボとモスタルという街の中間にある街です。生まれ育った家から100メートルのところには、スタジアムがあって、時間があるときはいつもそこでサッカーをやって遊んでいました。宿題もそこでやっていたぐらいです。学校では優秀な生徒だったと思います。本当に美しい少年時代でした」

 ヤブラニツァ付近は、グラニット(御影石)の産地で2つの大きな企業があった。父親は、そのひとつで働いていた。

 14歳になったとき、ハリルホジッチは、電気工学を学ぶため、モスタルに移った。エンジニアを目指していたのだ。しかし、一方でサッカーも続けていた少年は、地元のクラブチーム「ジュニオール・ヴェレジュ・モスタル」で次第に頭角を現しはじめる。

「18歳になったとき、学問を続けるか、サッカーでプロ選手として契約するか選択を迫られ、私は、学問の道を捨てました。母は学問を続けてほしいと思っていたけれど、残念ながら期待には応えられなかった。でも、私の兄弟もクラブでプレーしていましたし、能力があると周囲の人から言われていたので、決断したんです」

「ヴェレジュ・モスタル」は人気のあるチームで、成績も常にトップグループにつけていた。攻撃を重視するこのチームで、ハリルホジッチは11年間で207試合に出場、実に103得点を挙げた。

 そして、29歳を迎えたプレーヤーは、他国への移籍を決意する。


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