1995年。かれこれもう20年前のこととなるが、私はモーリタニアを抜けるルートをとり、オートバイでサハラを渡った。


 
 モーリタニアのヌアディブという街から首都ヌアクショットまでは、四方を砂丘に囲まれた風景が延々と続く。轍があるだけで、道路と呼べるものは見当たらない。方位磁針をもって闇雲に南下することもできなくはないが、そんなことをすれば、深い砂にタイヤを取られ、いつまでも前に進むことができなかっただろう。サハラに明るくない外国人旅行者の多くは、道先案内人として現地のガイドを雇い、サハラを越えていた。私も他の旅行者と同様、このときにヌアディブでたまたま居合わせたイタリアから4WDのトラックでやってきた旅行者ともに、モーリタニア人の現地ガイドを雇って、4WDに併走しながら一路ヌアクショットを目指した。

 どちらを向いても砂と空しかない砂漠の世界は、初めのうちは美しく見える。しかしすぐに、果てしない孤独感からくる心細さのため、美しいと思える余裕がなくなっていった。周囲をどれだけ見渡しても、イタリア人のトラックと自分のバイク以外には、いっさいの人工物を目にすることはない。たまに吹き抜ける風の音以外には、完全な静寂が耳を覆う。こんな風景に長く身を置いていると、この世界には自分たちしかいないとすら感じられてくる。

 そんな砂漠の真ん中でも、現地のタクシーとしばしば行き合う。ばっちりの重装備で構えたこちらと違い、彼らの車は古いカローラ。しかも、5人きっちり乗車している。お互いに車を停めると、タクシードライバーは穏やかな笑顔を携えながら近づいてきて、こちらのガイドと握手。挨拶と道の状況説明を互いに交わし合い、私たちとは逆の方向へ向けて、また出発していった。気負いと緊張で吐きそうな気持ちになっている私と、ドライバーの緩い面持ちとの落差は、相当なものだった。

 道路も標識も、方位磁針すらなくとも、なぜか、彼らは進むべき道がわかる。

 私たちが雇ったガイドは、しばしば車を停めてボンネットの上に乗り、遠くへ目を凝らすことがあった。私にはただ一面の砂にしか見えない風景をじっと見渡し、「次は向こう」と指差す。その方向へ進むと、ふかふかの砂丘を避けた、固く締まった走りやすい砂地が続くのだった。轍がなくなった時も、ガイドの指差す方向へ進むうちに、再び轍に合流することができた。

 「あと少しで次の村に着く」と言われたときは、にわかに信じられなかった。あと少しと言われても、依然周囲は砂の世界のみ。「あと少し」を疑いつつバイクを走らせていると、鼻に強烈な何かを感じた。無臭の砂漠で感じる匂いは、異物が入ってきたかと思うほどに強烈に感じる。異物の正体は、水の匂い。しかし、遠く前方に目を凝らしても、何も見えない。10分ほど走ってやっと、遠くに水蒸気でたゆらぐ木々を見つけた。間もなく、オアシスの村に到着。確かに、ガイドの言うとおり、オアシスまでは「あと少し」だった。

 現地のタクシーとは、2時間に1度ほどの頻度ですれ違った。私には砂漠にしか見えないこのルートも、現地の人々にとっては紛れもない「道」なのだ。私にはその恐ろしさすら感じられる砂漠の道を、現地の人々は、笑顔を携え、行き来していた。
 
 2006年ごろより、西サハラからモーリタニアへと抜けるこのルートは完全な舗装路となっている。残る2つのルートは依然未舗装だが、もともと硬くしまった路面が続くため、走行の難易度は低い。南へ向かうために大変な思いをしながら砂丘を越えなければならなかった時代は、過去のものとなった。

 モーリタニアの砂丘をカローラで越えていたタクシードライバーは、新しくできた舗装路をどう感じているのだろう。あのときと同じように、笑顔で運転しているのだろうか。それとも、走りやすく便利になった分、時間に追われて、眉間にしわを寄せているのだろうか。いつの日かモーリタニアを再訪したときには、サハラ越えの昔話を彼らとしてみたい。

 実は今回、ご紹介できるサハラ砂漠縦断時の写真が、一枚もない。

 このときサハラを無事に渡り終えた私は、西アフリカを抜け、ザイール(現コンゴ民主共和国)の密林を走行中に、バイクごと橋から小川へ転落してしまった。カバンは完全に水没。撮影済みのフィルムをすべて濡らしてしまっため、このときの写真がない。そんなザイールでのお話も、次回ご紹介したい。

岩崎有一(いわさき・ゆういち)
1972年生まれ。大学在学中に、フランスから南アフリカまで陸路縦断の旅をした際、アフリカの多様さと懐の深さに感銘を受ける。卒業後、会社員を経てフリーランスに。2005年より武蔵大学社会学部メディア社会学科非常勤講師。

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