1937年にトヨタ自動車工業を創業した喜一郎の不幸は、敗戦後の不況、労働争議に見舞われたことと、52年に57歳で急逝したことである。会社が倒産寸前となり、人員整理をし、経営責任を取り50年に辞任、再び社長に就任する直前に病魔に襲われた。
過去を振り返るときに「もしも」は禁物だが、もしも喜一郎が社長として50年代半ばからの高度経済成長期に経営のかじ取りをしていたならば、米自動車殿堂入りももっと早くに実現したかもしれない。
喜一郎の孫の章男社長は記念式典で、喜一郎の写真とトヨタ自動車を創業したころにグループで一緒に働いていた847人の人たちの名簿を載せた大きなパネルを前にして「皆さまの努力と挑戦の日々をやっと認めていただけた。この賞は何も良いところを見ることができなかった喜一郎とその仲間の皆さまがいただいた最初の賞です」とあいさつした。トヨタがWEB上で公開している公式映像では、そのとき、章男社長は言葉に詰まったように見えた。
章男社長は2年ほど前から「継承者は挑戦者であるべきだ」とよく語っている。記念式典のあいさつでも「襷(たすき)を受け継いだ私たちがリスク、リスクと言って何も挑戦せずに安全なことだけをしていたのでは、先人の方々にも、次世代の人たちにも申し訳が立ちません」と語った。式典にあえて招いたグループ各社の若手社員55人に創業時の奮起を再現してほしいと言わんばかりである。
トヨタの創業時の数多くのエピソードから見えてくるDNAはどちらかといえば、リスクを恐れず挑戦するという積極果敢なベンチャースピリットだ。しかし、1950年ごろの経営危機を経て、大企業として育っていくにつれて、トヨタは「石橋をたたいても渡らない」と言われた時代があった。そんな社風を壊そうと章男社長は「三振をしても打席に立つ人が評価され、見ているだけで打席に立たない人は評価されない会社にしたい」と語るようになった。