中日・松坂大輔 (c)朝日新聞社
中日・松坂大輔 (c)朝日新聞社

 20年前の春、15歳だった山崎勝己は、夢の舞台を映し出しているテレビの画面にじっと見入っていた。グリーンの「HOTOKU」のロゴを胸に、甲子園で戦っている先輩たちの姿がまぶしく、輝いて見えた。

 ところが、時間を追うごとに、その頼もしい先輩たちをこともなげに退けていく「強敵」の存在にも、山崎の心はぐっと捕らえられてしまっていた。

「ホントにすごい。そうとしか言いようがなかった。高校に入ったら、こんな人とやらなきゃいけないのかと……」

 山崎はその“衝撃”を今も鮮明に覚えているという。

 1998年、横浜・松坂大輔が全国制覇を果たした第70回選抜高等学校野球大会。後に「平成の怪物」の異名を取るようになる右腕が初めて甲子園のマウンドに立ったのは、3月28日の2回戦のこと。その相手は甲子園のお膝元、地元兵庫の強豪・報徳学園だった。

 オリックスの捕手として活躍する山崎は、2018年のシーズンでプロ18年目を迎えた。松坂から見ると、2歳年下になる。1998年のセンバツ時は、すでに報徳学園への入学が決まっていた。

 俺もこのユニホームで甲子園に出て、思い切り活躍するんだ。

 躍動する先輩たちの姿に、自らの未来の姿を投影していた。ところが、報徳学園は松坂に全く歯が立たない。何より驚かされたのは、これまで見たことのない「剛球」だった。

 150キロ--。

 甲子園で、高校生がまだ誰も出したことのない大台。それを、松坂は報徳学園戦でマークしたのだ。春夏の甲子園を通して、初めてたどり着いた未踏の領域。山崎が見たのは「高校生最速右腕」が誕生した歴史的瞬間だった。

 報徳学園は8回までゼロ行進。9回にやっと反撃したものの、2-6の完敗で初戦敗退。松坂はこの報徳学園戦を皮切りに、その年の春と夏、甲子園で一度も負けなかった。

 松坂の甲子園通算成績は11勝0敗。防御率0.78。10完投、6完封。99イニングを投げ、97個の三振を奪った。夏の準々決勝では、PL学園を相手に演じた延長17回・250球の激闘。決勝の京都成章戦ではノーヒットノーラン。数多の甲子園伝説を築く、その第一歩を記したゲームこそが、山崎がテレビを通して見た報徳学園戦だった。

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報徳学園で語り継がれる“伝説”