両チームともに無安打という球界初の珍ゲームが実現したのが、1994年4月26日のイースタン、ヤクルトvs西武(大宮)。
ヤクルトはルーキー・山部太、西武は3年目の竹下潤が先発。くしくもドラ1左腕同士の対決となった試合は、「直球に力があり、コントロールも良かった」いう山部が低めを丁寧に突いて内野ゴロの山を築けば、前年9月14日のイースタン、ヤクルト戦でノーヒットノーランを達成した竹下も「相手が同じドラフト1位左腕なので、気合が入った」と譲らず、両チーム無安打のままゼロ行進が続く。
試合が動いたのは5回。ヤクルトは先頭の河野亮が左飛を打ち上げたが、山田潤が落球して無死二塁(記録はエラー)。送りバントで1死三塁とした後、幸田正広が投前にスクイズ。竹下は素早く本塁にトスしたが、捕手・田原晃司が落球したため、1点が入った(記録は犠打野選)。
6回以降も両左腕は安打を許さない。9回裏、西武は先頭の代打・安藤真児の四球をきっかけに、1死二塁のチャンスをつくるも、2死後、犬伏稔昌が一ゴロに倒れ、1対0でゲームセット。この瞬間、無安打試合が成立した。
過去には無安打のチームが勝った例もあるが(1939年5月6日の阪急2対1南海)、両チーム無安打というのは、1軍やメジャーを含めても史上初の珍事だった。
ファーム初勝利をノーヒットノーランで飾った山部は「記録は7回に意識しました。でも、ノーヒットよりも完封しようという気持ちのほうが強かった」とコメント。内容は投球数110、4与四球、3奪三振、内野ゴロ15だった。
一方、“ノーヒットワンラン”で不運にも負け投手になった竹下も「(次も)2試合続けていい投球をして、1軍(再昇格)へのはずみにしたい」とさらなる飛躍を誓った。
その後、2人は1軍で活躍し、山部は95年にチーム最多の16勝で優勝&日本一に貢献。竹下も優勝決定試合となった98年10月7日の近鉄戦に先発し、8回を自責点2で勝利投手になっている。