同情が集まったからなのだろうか、トウチャンを喪ってからの私には夕食や飲みのお誘いが異常に増えた。仕事の会合もあるので、それを足したら、土日もあわせて1週間、空いている夜がないくらいに、毎日誰かとなにがしかのご飯を食べている状態が続いていた。おごったりおごられたり、割り勘だったりでエンゲル係数はマックスに到達していたが、18年間べったりと一緒にいたトウチャンの不在から目をそむけたくて、そして何よりひとりぼっちの時間を過ごすのが怖くて、スケジュール帳が空いていると強迫観念的にそこに予定をねじ込み続ける。そういう日々が絶え間なく続いていた。
その中には新しく出会った人や古い男友達との週末の「デートもどき」も含まれている。映画からの食事、バーという定番コースをただルーティンのように繰り返していた。実際、映画1本や同じ本を1冊共有するだけで、人間の距離はぐっと縮まる。前々からその人がなにに感動し、なにを面白がれるか、どういうことに好き嫌いを感じるかなどの「感性」や「価値観」を本や映画という同じ物差しで測れる気がしている私には貴重な時間だった。
デート映画の選択はあえて相手の好みに全面的にあわせた。そうすることでトウチャンが観ようとしなかった類の作品にも出会えるし、どうせなら自分の興味の裾野を広げたかった。その結果、なんと「シン・ゴジラ」には違う相手と合計4回も出かける結果になった。そして、夜はそれまで以上に幅広いジャンルの本を読み続けた。いい物語にであったときは、人にプレゼントし、仲間と感動を共有することに心を砕いたのだ。それらの本や映画が紡ぐ物語は私の心の穴にどんどん降り積もってくれた……。
本を読むのはもちろん、こういう形で映画を観続けたのにはきっかけがある。トウチャンを喪って3か月後に、村上春樹さんが読者からきた相談に答えたサイトを1冊の本にまとめた『村上さんのところ』が刊行されたのだが、その中で、身近な人の死の受け止め方について質問した女性に村上さんが答えている。その回答が見事に響いたのだ。長いがここに引用させていただく。
「親しい方を(中略)亡くされると、自分という存在から何かが急激にもぎ取られてしまったような気がします。なかなかそれを受け入れることができません。気持ちの中に空洞ができてしまいます。(中略)もしあなたの中に空洞があるのなら、その空洞をできるだけそのままに保存しておくというのも、大事なことではないかと思います。無理にその空洞を埋める必要はないのではないかと。これからあなたがご自分の人生を生きて、いろんなことを体験し、素敵な音楽を聴いたり、優れた本を読んでいるうちに、その空洞は自然に、少しずつ違うかたちをとっていくことになるかと思います。人が生きていくというのはそういうことなのだろうと、僕は考えているのですが。」(『村上さんのところ』新潮文庫P105)
同じように愛する人を喪くすという体験をした方にこの文章を読んでもらいたい。
トウチャンを亡くした直後に、かつて最愛のパートナーを突然喪った経験をした近しい女性に「この絶望的な想いはいつ薄れるときがくるのでしょうか」とすがりつくように聞いたことがある。「正直、立ち直るのに3年はかかったよ」という返事に、「3年もこんな地獄が続くのっ!?」と悲鳴のような声をあげた私に、彼女は続けた。「でもね、49日、百か日、1周忌、3回忌・・・と確実に時間が優しい味方になってくれるよ。昔の人はそういう区切りを設けて遺されたものの気持ちを和らげたのかもね」と私の手を握りしめてくれ、私は声を殺して泣いた。
この体験から5か月後には、公私ともに交流のあった女優の川島なお美さんが逝ってしまわれるのだが、直後に夫の鎧塚俊彦さんから、「この辛さはいつか少しはマシになるんですか?」と問われ、同じ内容を伝えた。それが彼の救いになってくれたのならいいのだが。
いまの自分にできることは、この空洞のなかに、たくさんの経験や素晴らしい物語を投げ入れていって違うかたちにすることなのだ。それをもし伝えていくことができるのなら、愛する者の不在に苦しむ方の小さな灯になるかもしれない。(中瀬ゆかり)