おそらく他社はまだ気づいていないが、鑑定結果を待っているうちに察知して、デリケートな事情を知らずに中途半端に書き飛ばしてくるかもしれない。その瞬間、私の特ダネはなくなる。しかも、その報道が後から鑑定結果で裏づけられれば、完敗である。情報を抱え込んだまま特ダネにできず、みすみす他社の後塵(こうじん)を拝する。無能の烙印を押されても仕方ない大失態だ。
ふと、捜査幹部と交渉できないかという考えが頭をよぎった。自分はこれだけ知っている。だが事件がつぶれては困るから、今は書かないと約束する。その代わりにもう大丈夫という時がきたらヒントをくれないか――。だが、すぐにあきらめた。幹部がとぼける顔が目に浮かぶようだった。
もう一つの殺人事件なんて聞いたことがない。書きたければ書けばいい。ただ、仮にそんなものがあったとして、あなたの記事で逮捕できなくなったり、あなたが訴えられたりしたら、それはあなたの責任だ。
私に残されているのは、鑑定結果が出たタイミングとその中身を素早くつかむ、それだけだった。他社が気づかないことを願いながら、記事にするのを我慢する。書ける範囲で原稿を用意しておき、警察の動きに神経を尖らせる。そんな日々が数カ月は続いただろうか。
Xデーは突然、訪れた。
ある金曜日の夕方。いつものように県警庁舎をぶらついていると、1人の幹部が部下から報告を受けるところに居合わせた。内容は聞こえない。何度も見てきた風景だ。
ただ、この日は少し様子が違った。報告前に部下がソファに座ったこちらを振り返り、チラッと見た。私の目を気にしている、と感じた。
老眼気味の幹部はふだん椅子にもたれて「前へならえ」のように両手を伸ばし、書類を目から離して読む癖がある。まゆはゆったり「八の字」型だ。
ところが、その時は報告書を受け取るや、ぐっと机に突っ伏すように身を乗り出して読みだした。「逆八の字」とでもいうのか、まゆ尻を釣り上げて目を見開き、ふだんと正反対に顔を書類に近づけた。