とにかく、とても自然で、無駄も無理もない。よくあるような、装飾的要素や時代背景を示すものとして音楽を利用するような書き方でもない。たとえばコーエン兄弟の『オー、ブラザー!』のように、それぞれの場面で意味のあるものとして実際に聞こえている音楽しか、聞こえてこない。聞かせようとしない。そんな印象なのだ。

 第1話の「クルーナー」では、ヴェニスを舞台に、カフェ・ミュージシャンとして働くポーランド出身の若者とかつて一世を風靡した(らしい)米国人歌手の出会いが描かれる。サブタイトルにある「夕暮れ」はいうまでもなく人生の黄昏時のメタファーであり、この米国人歌手も、自分の時代はもう終わったのだということを理解している。年下の美しい妻との関係は、すでに危険水域に入っていた。終盤、彼はゴンドラに乗り、若者が弾くギターをバックに、妻のいる部屋に向かって優しく歌いかけるのだが、虚しい結果に終わる。その美しくも哀しいシーンなどで、「恋はフェニックス」「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥー・イージリー」といった往年の名曲がゆったりと流されていく。

 第2話の「カム・レイン・オア・カム・シャイン」には、40代後半の3人の男女が登場する。英国南部の大学で出会ったころ、レイモンドとエミリーは、ほかの学生たちから距離を置くようにして、アメリカのスタンダードばかり聴いていた。たとえばタイトルになっている名曲や「ビギン・ザ・ビギン」「エイプリル・イン・パリ」などを安いプレイヤーで繰り返して聴き、歌手によるヴァージョンの違いを真剣に語りあったりする。のちにエミリーはやはり大学の仲間だったチャーリーと結婚するのだが、時は流れ、3人はともにそれぞれのトラブルを抱えていた。壁に突き当たっているわけだが、最後はやはり、音楽がある種の救いをもたらしてくれる(完全な解決ではないが)。

 といった具合に、それぞれが微妙にリンクしながら第3話、第4話、第5話と進んでいき、ABBAの「ダンシング・クイーン」からグレン・ミラーの「ザ・ニアネス・オブ・ユー」まで、さまざまな音楽が物語に欠かせないものとして聞こえてくる。あるいは、ミラン・クンデラの父が師事した音楽家ヤナーチェクの名前がさらりと言及されていたりする。素人風の紹介で申しわけなく思うし、もちろん偉そうなことはいえないのだが、音楽を愛する皆さんに、カズオ・イシグロが築き上げてきた文学世界への入り口という意味でも、この本をお薦めしたいと思う。

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