今川方には織田領の侵略、城塞攻略、信長撃滅という複数の戦略目標があったのに対し、兵力に劣る信長が、主将今川義元の殺害というただ一点に目標を定め敵陣に突入した点が勝利の鍵と言えそうである。余談ながら約400年後にミッドウェイ海戦で大敗北した帝国海軍も複数の戦略目標という義元と同じ轍を踏んでいるので、日本人の通弊かもしれない。
義元も、家督争いを勝ち抜いて獲得した領国をさらに広げ、武田信玄や北条氏康など戦国最強の武将たちと国境を接して一歩も譲らず、検地や法の整備など領国経営にも力を注いだ名将であった。まさか負けるとは思わない油断以上に、相手が日本の歴史に名を残す最大の天才の一人であったことが敗因であろう。敵の分断と兵力の集中的運用というナポレオン顔負けの戦術を駆使し、一瞬の勝機を捉えたことが信長の天才性である。
■体裁と本質
鉄漿は東アジア各地に残る習慣で、秦・漢の時代に成立した最古の地理書『山海経』には「黒歯国」の記述があり、日本でも古墳時代の人骨や埴輪に鉄漿の跡がある。
室町時代、特に貴族の間では一般的な習慣であり、戦国武将も戦場に赴くにあたり、首を打たれても見苦しくないよう化粧と鉄漿をしたという。江戸時代以降は、男性では皇族・貴族、武家の既婚女性、遊女、芸妓に残ったが、幕末、特に欧米人と接触するようになってからは消滅した。
鉄漿水(かねみず)は、酢酸に鉄を溶かした液体である。これにタンニンを多く含む五倍子粉(ウルシ科のヌルデの葉にできる虫コブを粉にしたもの)を加え非水溶性にし、数日に1度、歯に塗布すると被膜が形成される。
鉄漿には何らかの歯科医学的意味があるのではないかと考えられてきたが、WHOのタヤニンらは2006年、東南アジアの鉄漿の成分が、虫歯であるミュータンス菌の増殖を強く抑制することを報告した。
ただ義元自身はその意義を考えて鉄漿をつけていたのではなく、16世紀貴族のたしなみに過ぎなかったのかもしれない。もちろん、信長は鉄漿をしていない。手間と効果を考え無駄なことをしないところが、中世人と近世人、勝者と敗者を分けたのだろう。
【出典】
Tayanin GL, Bratthall D. Black teeth:beauty or caries prevention? Practice and beliefs of the Kammu people. Community Dent Oral Epidemiol. 2006 Apr;34(2):81-6.