歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。
日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。特別に本書の中から、早川教授が診断した今川義元の症例を紹介したい。
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今川義元(1519~1560年)
【診断・考察】う歯予防・単純性肥満
歴史は敗者に厳しい。東海一の弓取りとして天下人になる資質と環境を持ちながら、無名に近かった織田信長に不覚を取ったのが、駿河の太守・今川義元である。今川氏は清和源氏の名流で、足利氏一門である吉良氏の分家にあたる。将軍家からは御一門として遇され、「御所が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」とされた。源氏の長者と征夷大将軍職を継承し得る名門である。後の徳川家で言えば御三家に相当する家柄であろう。
■油断大敵
義元は永正16年(1519年)、今川氏親の五男として生まれた。同母(氏親の正室、後の寿桂尼)に長兄の氏輝、次兄の彦五郎がいたため仏門に入る。京に上って五山に学ぶが、氏輝と彦五郎が同日に急死、同じく出家していた異母兄の玄広恵探との家督争いに勝利して今川家当主・駿河守護となる。
家督を継ぐと、西方では土着の松平氏を配下に置いて遠江、三河を支配する。そして運命の永禄3年(1560年)、2万5000の軍を率いて尾張への侵攻を開始、織田の前衛部隊を蹴散らしてゆく。義元本人は肥満短足のため馬に乗れず輿に乗っての行軍である。
信長は家臣たちの清洲籠城論を排し、5月19日早朝、部隊を熱田神宮に集結させて戦勝を祈願する。東方に進軍して桶狭間方面に今川方の本陣があることを知ると、豪雨の中、全軍を率いて強襲する。襲撃を受けた今川方は、義元を中心とした300騎ほどの旗本が退却を始めるが混戦となる。義元は、信長の馬廻り服部小平太を切り伏せたものの、助勢の毛利新介に組み伏せられて首を授ける。享年42。
この場面は、歴史小説や大河ドラマにたびたび登場する。白粉を塗り、眉を描いて鉄漿(おはぐろ)を施した義元があたふたと逃げ、颯爽たる信長配下の若武者たちに討ち取られるイメージは、多くの日本人に定着していると思う。