聖徳太子がいなければ日本に仏教は根付かなかったのだから、お寺が太子を大事にするのは当然だが、加えて浄土真宗の祖・親鸞が聖徳太子を崇拝したことから、鎌倉時代に各地のお寺で太子像の製作が隆盛した。まさに「仏さま」として祀られているのである。
●江戸時代にも太子ブームが
一方東日本では江戸時代になり、大工・左官・鍛冶屋・桶屋・石屋・屋根葺きなどの間で「太子講」という職種別の講が作られるようになっていく。これは、聖徳太子が仏教とともに日本に入ってきた建築技術(渡来人の活用)も庇護し、曲尺(かねじゃく)を発明、あるいは輸入した人と言われていることに由来するらしい。
高い海外の諸技術が導入されたと考えられている大阪の四天王寺では、今も毎年11月22日に「番匠堂 曲尺太子」法要が行われているが、多くの職人たちの集まる場であった江戸界隈でも、「太子講」は爆発的な広がりを見せる。
徳川家康に関係しているのか、出身地でもある静岡県以東では、今も「太子講」が残っていて、それぞれの職人さんたちが会合を持っているという。有名どころの「太子講」では、江戸の職人たちの手間賃を決める役割も担っていたのだとか。このような江戸時代に太子ブームを迎えた東日本では、個々の信仰対象としてよりも、むしろ集合体の「核」として果たした役割の方が大きいのかもしれない。
ちなみに世田谷に「太子堂」という地名がある。東京人にとってはわりと有名で、三茶と三宿とともにちょっとオシャレなイメージのある土地柄だ。この太子堂は、もちろん聖徳太子を祀った太子堂があることから来ている(お寺の正式名は「圓泉寺」)。
2月22日は(旧暦)聖徳太子の命日だったが、「講」の行事はあっても、命日に関する催事は関東ではあまり聞かない。現代人にとっては、聖徳太子と寺社のつながりは希薄になってしまっているのだろう。とはいえ、月命日にあたる「22日」の太子の日には、変わらず全国各地で楽しいイベントが催されており、聖徳太子を虚構の人として消し去るのは、なかなか難しそうだ。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)