8月7日。この日の営業をもって、渋谷パルコは建て替えのための一時休業にはいった。再開は2019年の予定。20階建ての大型施設に生まれ変わる予定だ。
公園通りの真ん中にある渋谷パルコPart1は、1973年にこの地に誕生した。
パルコ自体の誕生は、69年の池袋パルコが最初で、渋谷店は2番目の出店だ。この渋谷店をきっかけに、グランバザールなどのポップなテレビCMやポスター、パルコ劇場、パルコミュージアム、クラブクアトロ(ライブハウス)にシネクイント(映画館)など、ファッションにとどまらない文化・アートへのアプローチを積極的に展開、「パルコ文化」とも呼ばれる流行の発信地となった。
そんなパルコが一時渋谷から姿を消す。渋谷の大きな節目がやってきた感がある。
「パルコ(PARCO)」の語源は、イタリア語の「公園」。渋谷パルコPart1の坂の先には代々木公園がある。公園通りは、「パルコ通り」でもある。ちなみに、宇田川町からPart1に続く細い坂「スペイン坂」は、渋谷パルコのイメージ戦略に合わせて命名されたものだという。
それまでこの通りは、「区役所通り」という名称だった。言うまでもなく、公園通りの坂をのぼりきったところに渋谷区役所があったから。その隣には、渋谷公会堂(旧C.C.レモンホール)。パルコと同じく建て替え工事が始まっている。
公園通りのアイコンは、数年後に一気に生まれ変わる。
「みんな古い建物になってしまいましたからね。耐震の意味合いもあるんですよ。パルコの建て替えで渋谷も変わっちゃいますねとよく言われますが、僕にとっての渋谷は、ずっと工事が続いている街なんですが」
京王井の頭線神泉駅前で喫茶店を経営する佐藤豊さんが言う。51年、渋谷・円山町にあった弘法大師ゆかりの浴場とされる「弘法湯」に生まれた。生まれも育ちも渋谷。フリーカメラマンとして渋谷の今昔を撮影した写真集「渋谷の記憶」も発行している。戦後の渋谷の生き字引のような存在だ。
公園通りの渋谷パルコが出来る前、ここはどんな場所だったのだろうか。
「建設会社の社員寮だったんですよ。小学校の友だちも何人か住んでいて、丸井のあたりなんかもまだ普通の住宅街でした」
パルコが出来るという話がきたときは、どんな雰囲気だったのだろうか。
「店舗としては、もともと池袋にありましたからね。あれが渋谷にくるのかという感じでした」
そんなパルコが、なぜ渋谷の街で、「文化」になっていったのだろうか。佐藤さんがまずあげたキーワードが、1964年の「東京オリンピック」だった。