歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。
日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。特別に本書の中から、早川教授が診断した、源義経の症例を紹介したい。
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源義経(1159~1189年)
【診断・考察】小児的性格
医者生活も30年を超え、数々のヒヤリハット経験やクレーマー患者、実験の大失敗、試験問題の出題ミスなどなどを乗り切ってくると、ピーリングなどできないほど面の皮が厚くなる。感情鈍麻もあるのか、教授連中は誰も多少の修羅場では涙が出ない。本項は涙を見せた英雄の話。
日本の歴史の中で、最も人気のある武将の一人は源義経であろう。
武門の名家、清和源氏の棟梁(とうりょう)・源義朝の九男に生まれながら、幼くして父を失い、絶世の美女だった母・常盤と山中をさまよった末に平氏の手に落ちる。鞍馬山で“天狗”に武道の稽古を受けた後に奥州平泉に亡命するが、兄の挙兵に馳せ参じ、軍の指揮を任せられる。先に京に入った従兄・木曽義仲を討ち果たし、さらに西国に兵力を温存する平家を一ノ谷、屋島と撃破。ついには壇ノ浦の合戦で滅亡に追い込む。その後の悲劇的な最期もあって「判官贔屓」を受けるが、実際、騎兵を主体とした少数精鋭の機動的運用など、確かにそれまでのパラダイムを変えるような軍事的天才だった。
しかし、義経には意外な面がある。天下の英雄が人前構わず泣くのである。兄に初めて会った黄瀬川の陣では、「今日弱冠一人、御旅館の砌(みぎり)に彳(たたず)み、鎌倉殿に謁し奉る可きの由を称す、(中略)互に往事を談じ、懐旧の涙を催す(懐かしさに涙を流した)」(『吾妻鏡』治承4年)。次に、屋島で忠臣・佐藤継信が身代わりとなって討ち死にした時、「判官も鎧の袖を顔に押当て、さめざめとぞ泣かれける」(『平家物語』巻第十一)。そして、兄・頼朝に面会を許されなかった時の書状(腰越状)で、自ら「義経犯す無くして咎を蒙(こうむ)る、功有りて誤無しと雖(いえど)も、御勘気(かんき)を蒙るの間、空しく紅涙(こうるい)に沈む(空しく涙に暮れています)」(『吾妻鏡』文治元年)。