基地問題に触れずに済むのであれば、むしろそうであってほしいと、記者の多くが望んでいた。
「取材したいことはほかにも山ほどある」と若手記者は訴えた。
「基地問題に追われ、視界に映ることのなかった問題もあったかもしれない」とベテラン記者も嘆いた。
基地問題をやりたくて沖縄紙に入ったという者は、実はそれほど多くはなかった。一部の記者は、こっそり私に打ち明けた。家の近所だから就職を決めた女性記者がいて、寒いところが嫌いで南の果てを選んだ県外出身の記者がいて、大手マスコミの入社試験に落ちまくり、たまたま合格したのが沖縄紙だったという記者がいる。
しかし、カメラを担いで走り出せば、基地はいつも目の前に立ちふさがる。目をそらしたって、戦闘機の爆音は耳に飛び込んでくる。沖縄で記者をするというのは、そういうことだ。
それを「偏向」だとする声がある。沖縄紙が県民を「洗脳」しているのだとする声もある。沖縄紙を「敵」として認知し、叩くことで、排他の気分に乗っかる者たちがいる。
いまからちょうど1年前、自民党の学習会で、作家・百田尚樹氏は「沖縄の新聞はつぶさないといけない」と話した。これをきっかけに、沖縄紙への攻撃はますます強まった。
「偏向」とはいったい何なのか。では、新聞が果たすべき役割は何なのか。
それを確かめたくて、私は沖縄に通い続けた。
あるベテラン記者はこう漏らした。
「一方に大きな権力を持つ者たちがいる。もう一方に基本的な人権すら奪われた者たちがいる。その不均衡をメディアはどう報ずるべきなのか。そのとき、権力と一体化して奪われた者たちを批判するのであれば、それこそ恥ずべき偏向なのではないか」
さらに別の記者はこう続けた。