しかし、龍馬自身は武力討幕を望まず、大政奉還を柱とした船中八策を後藤象二郎に提案、これが土佐の藩論となって、最後の将軍徳川慶喜に大政奉還を認めさせることになる。そしてその直後、慶応3年(1867年)11月15日、京都河原町の近江屋で盟友中岡慎太郎と共に暗殺される。享年33。
龍馬を知るには同時代人の回想に加え、本人の手紙が役に立つ。幸い龍馬には130通を超える手紙が残されている。初恋の人平井加尾に宛てた「一、高マチ袴、一、ブッサキ羽織、一、宗十郎頭巾、外に細き大小一腰各々一ツ、御用意あり度存上候」という勤王(脱藩)の誘いの手紙があるが、もらった当人は何のことか分かったのだろうか。
姉・乙女や姪・春猪には「エヘンエヘン」など口語交じりの手紙を出す一方、陸奥宗光や木戸孝允に宛てた手紙は書式を整えており、単純なおっちょこちょいとは思えない(字は汚く誤字も多いが)。「米国建国の父ワシントンの子孫は今何をしているか分からない」という海舟の言葉から共和制の本質を直観、理解し、仇敵同士だった薩摩と長州の同盟を斡旋、大政奉還後には旧徳川将軍家も取り込んだ諸大名による議院内閣を構想したりと、時代の思想や幕藩体制にとらわれないユニークな発想と構想力は、高い知能を裏付けるものであろう。
医学的には、優れた剣術家として頑健であり、33歳で横死しているため病気の記録は少ない。ただ、剣術では複数の流派で免許皆伝を得るなど過集中の傾向があるのに対し、学塾は中退、恩師・海舟のとりなしと藩主・山内容堂の赦免にもかかわらず脱藩を繰り返すなど、組織の秩序には馴染めなかったようである。また遠慮がなく、人の話を聞かずよく居眠りしていたという同時代人の記録があることから、ADHDだった可能性はかなり高い。日本の歴史を動かした偉人の一人がそうであったとしたら、ADHDを自認する者にとっても、輝ける希望の星というべき人物である。
【出典】
1 Baron DA. The gold medal face of ADHD. J Atten Disord. 2010 Jan ; 13(4):323-4.
2 Fitzgerald M. Did Lord Byron have attention deficit hyperactivity disorder J Med Biogr. 2001 Feb ; 9
(1):31-3.
3 Teive HA, Zavala JA, Munhoz RP, et al. Attention deficit hyperactivity disorder and the behavior of
“Che” Guevara. J Clin Neurosci. 2009 Sep ; 16(9):1136-8.
4 宮地佐一郎『龍馬の手紙』講談社学術文庫、2003
早川智
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