どうすれば小泉今日子のように、齢とともに魅力を増していけるのか―― その秘密を知ることは、現代を生きる私たちにとって大きな意味があるはず。

 日本文学研究者である助川幸逸郎氏が、現代社会における“小泉今日子”の存在を分析し、今の時代を生きる我々がいかにして“小泉今日子”的に生きるべきかを考察する。

※「小泉今日子が作詞を嫌がっていた理由」よりつづく

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 多くの80年代の女性アイドルは、「歌と演技だけの人間と思われたくない」という願望をギラギラさせていました(詳しくは「もしも「なんてったってアイドル」を松田聖子が歌っていたら(上)」(dot.<ドット>朝日新聞出版参照)。彼女たちは、文才や教養を誇示して「ただの芸能人」でないことを印象づけようと試みました。演技や歌といった「芸能人としてのスペック」に収まらない「特別な私」――それを証明しようと必死になっていたのです。

 小泉今日子の「夜明けのMEW」(1986年リリース)のアレンジを担当した武部聡志は、こんなことを言っています。

<(「夜明けのMEW」は)秋元康さんの詞だし、(斉藤)由貴ちゃんや薬師丸(ひろ子)さんみたいな「文学系アイドル」ではないから、ドラムやシンセの音色もちょっと派手めに作ってありますね>(注1)

「文学系アイドル」という表現に、この時代の「『特別な私』を見せつけたがる芸能人」のありようが集約されています。

 斉藤由貴は1985年、男性向けアイドル雑誌で「ルキノ・ヴィスコンティの映画と三島由紀夫の小説が好き」と語りました(注2)。今から見ると場違いな「教養自慢」に映りますが、この時代にはこうした言動が受けいれられていました。ポエムや小説をあつめた単行本も、彼女は何冊か上梓しています。パーソナリティをつとめていたラジオ番組にも、自作ポエムを朗読するコーナーがありました。

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