6422万人が足を運んだ大阪万博。「太陽の塔」はとりわけ多くの人々を魅了した (大阪府提供)
6422万人が足を運んだ大阪万博。「太陽の塔」はとりわけ多くの人々を魅了した (大阪府提供)
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万博のとりこになった少年時代の嘉門タツオさん(右、「さくら咲く」提供)
万博のとりこになった少年時代の嘉門タツオさん(右、「さくら咲く」提供)

 3月15日で日本万国博覧会(大阪万博)の開幕から50年を迎えた。高度経済成長期に沸き勢いがあった1970年の日本。今とは違うことも多い。当時の様子をよく知るシンガー・ソングライターの嘉門タツオさんらに話を聞いた。

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 週刊朝日「臨時増刊 ガイド日本万国博」に、加藤秀俊京大助教授(当時)が寄稿している。

<それぞれの建物は奇抜な色やデザインでひとを惹きつける。したがって、博覧会場に足をふみ入れた人間は、つぎからつぎへと眼に映ずるパビリオンをさまよい歩くことになる>と臨場感を持って書いた。

 それはさながら<おいしそうなごちそうがたくさん並んでいると、つい食べすぎてしまうのとおなじようなもので、博覧会場では、歩きすぎ症状を呈する人が続出するであろう>と、万博会場ならではの熱気を独特の筆致で記している。

 シンガー・ソングライターの嘉門タツオさんは万博会場まで自転車で30分ほどの大阪府茨木市に住んでいた。当時、小学生。それこそ万博の胎動が感じられるような距離感で、開幕を指折り数えて日々を過ごしていた。

 これまで見たこともない、新しいセンスや色合いのパビリオン、加藤助教授いうところの<おいしそうなごちそう>が次々誕生してくるさまを、嘉門少年は見つめていた。

「チャリンコで坂を上ったところの高台に行っては、会場の造成地が何もない茶色一色から、色鮮やかなパビリオンが突貫工事で次々生まれてくる様子を見て、開幕を指折り数えていた感じですね。今思えば、万博というものが実際に何を行うものなのか、最初は今ひとつわかっていなかったんですが」

 日ごとに盛り上がる街の喧騒が忘れられない。

「繁華街の電光掲示板には『万国博まであと○日』、近隣の市町村のあちこちに、『万国博を成功させよう』という看板が設置されていました。校長先生も朝礼なんかで『あと何日です』とことあるごとに言っていました」

 いったい、どんなことが起きるんや。子どもたちの期待感は膨らんでいく。

「すごいことが始まる、ということを周りの大人たちの躍動感、ワクワク感のようなものとともに、感じ取っていました」

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