私が結婚して北京で暮らした時、とても親切にしてくれ、中国料理を色々教えてくれました。

 昨夜テレビで、観客の全くいない角力を見て、がっかりしました。全く「お客さまは神さま」なのですね。

 ヨコオさんは、戦争の話をしろと、今度の手紙に書いてこられましたが、戦争のことはあまりにも話がありすぎ、どこから手をつけていいかわかりません。

 小学生の時はすでに毎日のように町内の若者が召集され、それを見送るため、町内じゅうの人が、その人の家の前に集まり壮行会をして、バンザイを叫んでいたものでした。その頃は連日、戦地で勝った勝ったということで、町内の人々と、提灯行列をしてねり歩いたものでした。

 女学生になると、校門の前には千人針の布を持ったおばさんたちが並び、登校の女学生をつかまえて千人針の赤い縫い玉をしてもらっていたものでした。

 戦場の兵士の苦労をしのんで、弁当は梅干しだけの「日の丸弁当」でした。また戦場の兵士の苦労を思いやって、冬でも長い靴下ははかされなく、軍足でした。

 これは家庭から文句が出て、大切な兵士を産む娘たちの子宮が冷えて、子供が産まれなくなったらどうすると云われて、学校側があやまるという珍事件もありました。

 そのうち学校全体を軍隊になぞらえて、私は総指揮官に命じられ、毎朝全校生徒の前の台の上から号令をかけ、その頃はやった軍歌「勝ってくるぞと勇ましく」のレコードに合わせ、全生徒を校庭で行進させたりしていました。

 新聞やラジオの報道(テレビはまだない)では、連日、戦地では勝ったというのみで、国民はそれを疑いもせず、提灯行列などして喜んでいたものです。そうそう、肉弾三勇士の話などが大きく報道され、ほめたたえられていました。

 女学校の卒業旅行は、朝鮮、満州旅行で、新京まで行きました。

 戦争の話は、まだまだつづきます。

 では、またね。

週刊朝日  2020年3月27日号

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