半世紀ほど前に出会った97歳と83歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。
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■横尾忠則「機銃掃射 悪夢の一瞬、僕の絵の原点に」
セトウチさん
僕は最近、戦時中のことを回想してそんな絵を何点か描いています。僕の作品の底流にある死のイメージはどうも戦中の恐怖が源流になっているように思います。青く晴れ渡ったきれいな空を想像すると、そこには飛行機雲を引いて飛ぶ銀色の十字架のように見えたB29が幻影のように浮かびます。また僕の絵の夜空が真赤っかなのは山の向こうの神戸や明石の空襲で焼けた空の記憶の反映だと思うのです。空襲で焼けた空を描こうとするのではなく、無意識でそんな光景を描いてしまうのです。絵に力があるとすれば、それは無意識の表現の結果なのかも知れません。
僕の町は幸い空襲からまぬがれましたが、終戦がもう少し遅ければ、米軍の爆撃の標的になっていたそうです。データが残っていたという話を聞かされました。
小学3年生の終戦の年のことです。運動場に千人ばかりの全校生が集められて朝会が行われていた最中のことです。裏山の頂上からいきなり3機のグラマン戦闘機が物凄い低空で襲って来ました。普通だったら、こんな状況時には空襲警報のサイレンが鳴るはずですが、この日は警報は一切なかったのです。レーダーにキャッチされないために低空飛行でやってきたのです。
先生の「逃げろ!」という声より先に僕達は校舎の中庭に逃げました。僕は中庭の小さいコンクリートの子供がやっともぐれる溝に飛び込んで、両手で目と耳を押さえて眼球が飛び出したり鼓膜が破れるのを防ぎました。3機のグラマン戦闘機は校舎の窓をバリバリと音を立てながら頭上を飛んでいきました。思わず見た飛行機にはパイロットの顔が見えました。パイロットの顔を見た者は何人もいました。
普通なら機銃掃射を受けるところですが、パイロット達も、いきなり山に沿って、ウワーッと谷底に突っ込んだところに子供が千人もいた。きっと予想外の光景に彼等も驚いたのでしょう。機関銃の引き金の手が硬直したまま、子供の頭上を飛び去ったんです。彼等にとっては想定外の光景だったのか、それともヒューマニズムがそうさせたのかはわかりません。僕達は死なないで助かったのです。