人間に必要な全知識がアカシックレコードとして隙間なくこの広大な宇宙の空間の中にギシギシにつまっているように思います。全宇宙がスマホの情報みたいに、いやそれ以上で、太古から未来に至るまでの情報がワンサとつまっているのです。われわれが知っているのはそのほんの豆くそほどの知識です。

 人間がもし、アカシックレコードとコンタクトを取ることが可能なら、何も一流の大学に行かなくても、この人間を取りまく空間自体が知識のルツボなんだと思います。だから、ある意味で知識をつめ込む勉強などしなくても、本来が知恵そのものの存在なんじゃないでしょうか。

 道元禅師は十代で仏門に入りました。大学には行っていません。だけど、彼は物凄い知識や真理を得ました。どうしてこのような真理に到達したかというと、何も求めないことを求めた結果到達した世界観だったんじゃないでしょうか。

 坐禅を通して何も考えない、求めない、まあいえばアホになる修行をした結果、次から次へと湧き起こる予感の連鎖の中で、あのような知性や感覚さえも超えた霊性に達した人ではないかと思うんです。言葉をかえればアカシックレコードと自由自在にコンタクトできる領域に到達したんじゃないでしょうか。

 何も考えないことで、何かを考えた以上の世界に達したように思います。僕は道元禅師のことはそんなに詳しくは知りません。だから仏教学者からすれば僕は寝言を言っているのかも知れません。なぜ道元禅師の話になってしまったかといえば、フト予感がした(笑)結果です。

 まあ、自己流の勝手なことを言ってしまいましたことをお許しいただきたいと思いますが、われわれから予感が奪われてしまったのは、あまりにも脳の機能に頼り過ぎて、知識をつめ込み過ぎた結果、予知の機能が働かなくなったんじゃないでしょうか。

 考えて、考えて、考え抜いた結果到達したコンセプチュアルアート(観念芸術)が現代美術の最先端を走っていますが、僕のやっていることは真逆の方向です。この欄でも何度も書いてきましたが、如何に考えない美術を描くか、というのが僕のスタイルです。頭を空っぽにして、フト閃くものを、ただキャンバスに移すだけです。意味も目的もありません。

 僕自身が何かを描こうとはしません。絵が求めるものを絵に代わってお手伝いするだけです。考えでギューギューづめした作品と違って僕の作品は何もない、空っぽの作品です。これを予感のアートとは言いませんが、「こんな絵が描けちゃいました」というアートです。

横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰

週刊朝日  2023年2月17日号

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