「今日は誰もおらへんから授業やめようと思った」
京大では、専門分野の勉強が本格的に始まるのは3年生から。東大では1・2年時点の成績で3年生からの進学先が決まる「進振り」という制度があります。未来がかかっている分、東大生たちは入学後も比較的真面目に講義に出席する。一方、京都大学にはそのような制度がないんですね。森先生の講義は出欠を取っていなかったこともあり、学期開始後しばらくすると、出席者数がどんどん減ってきてしまったんです。
その日の授業は私一人。帰りかけた森先生は私の姿を見て、「でもまあ、君が来るならやろか」と言われ、一緒に教室に戻りました。
森先生が教卓に「よっこいしょ」と座って「今日は何の話しようかな」とつぶやいてたばこを一服。その姿を見て、「ああ、自分は今、大学という自由な学びの世界にいるんだ」と感動を覚えました。
小学校・中学・高校までは一定のカリキュラムの下、勉強する内容が決まっている。けれど、大学は違う。既存の制度から自由になったものが「学問」で、大学の先生たちは、おのおのに専門分野を極めている。懇切丁寧に教えてくれなくとも、教師の所作や話芸から、学生は多くのことを吸収できることを知りました。
入学したのは農学部でしたが、1~2年の教養課程では、学部学科の垣根を超え、歴史学、社会学、文化人類学など、文系の講義を広く履修しました。河合隼雄さん(心理学)、上田正昭さん(歴史学)、利根川進さん(免疫学)……そうそうたる学者の謦咳に触れました。
講義に出ていないときは、大学の図書館にいるか、古本屋にいるかという生活。世間から見れば「ひきこもり」の状態ですが、本の世界は開かれていて、あらゆる所に自分を連れていってくれた気がします。
京大と比較される東大は、進振りなどの競争システムが作用することもあり、100人入学者がいれば、8割方は優秀な官僚やビジネスマンになると思います。一方京大の場合、入学後は完全に自由なので、真面目に勉強するのは100人中、数人程度。その意味では東大に比べて「歩留まり」(生産性)の悪い大学です。けれど、その「自由」の中で、新たな文化が創造されるという側面があるのです。
例えば「京都学派」と呼ばれる学問の伝統があります。京大教授だった哲学者・西田幾多郎を中心に始まった一派のことで、生態学者、経済学者など、多様な分野の研究者が名を連ねている。こうした学際的な潮流が生まれるのも、京都大学の自由闊達な文化が基盤にあってこそだと思っています。ちなみに「東京学派」はありません。
銀閣寺近くには、琵琶湖からの疏水が流れていて、その川べり一帯は「哲学の道」と呼ばれています。京都学派の始祖・西田は、この道を歩きながら思索にふけったそうです。私もそのあたりを、ぶらぶらとよく散歩しました。本当に感じのいい場所なんです。
京大には、大学院や助教授時代も合わせて約20年間もいましたね。ただ、その中でも最初の2年間で得たものが、私の人生の礎となっていると感じています。
(本誌・松岡瑛理)
※週刊朝日 2020年4月17日号