国内トップの入試難易度の京大。その一方で、ユニークな人材が輩出することでも知られる。個性的な人が京大に集まるのか、京大で個性的になるのか。各界の著名人に「わたしの京大時代」を振り返ってもらった。
* * *
■「芝居中心で7年かけて卒業。学業以外も認める風潮に感謝」
俳優 辰巳琢郎さん
7年かけて大学を卒業しました。芝居が中心の毎日で、やりたいことをやりつくした青春時代そのものでした。京大でなければ、ここまで一つのことに熱中できなかったと思います。
高校2年の春、つかこうへいさんの舞台に衝撃を受け、同級生と演劇愛好会を作りました。大学生になっても演劇は続けたいと思い、大学の授業より先に「卒塔婆小町」という劇団に入団しました。ほどなく、夕方ごろ大学に行って、夜中まで芝居の稽古をし、終わると屋台でおなかを満たし朝までマージャンという生活のリズムになりました。
京都は街がコンパクトで、市内はだいたいどこも自転車で移動ができました。ミニサイクルが流行っていた時代です。
授業はというと、英語・フランス語と体育という出席が必要な科目を除き、出席しないのが普通だった気がします。3回生のとき、劇団の4代目の座長になったこともあり、ますます大学から足が遠のきました。この年の取得単位は、ついにゼロ。中退も真剣に検討しました。
でも、ある演劇評論家の先生に「始めたことは最後までやりとげなさい」と諭され翻意。今でも感謝しています。卒業の前にNHKの朝ドラでのデビューが決まり、撮影のため卒業試験を受けられませんでした。でも、主任教授がリポートでもいいように根回ししてくださった。学業以外でも頑張っていればきちんと認めてくれる風潮もありがたかったです。
そもそも京大を志望した理由の一つは、父親が京大出身だったこと。法学部出身で、映画監督の大島渚さんとも同じクラスでした。子どものころ、同窓会についていって先輩にお会いしたこともあります。大阪の高校生は東大よりも京大に憧れます。出身校は、大阪教育大学教育学部附属高等学校天王寺校舎(当時)という日本で一番校名が長い学校。定期試験のときに監督がいないことで有名です。試験前に先生が来て答案用紙を配り、名前を書いたのを確認すると教室を出ていってしまう。そして試験終了5分前に戻ってくるんです。カンニング防止のために見張るという発想はありませんでした。