全国で緊急事態宣言が解除された。とはいえ、5月30日段階で新型コロナウイルスによる死者数は約900人を数え、第2波への警戒は怠れない。約100年前にパンデミックを起こしたスペイン風邪では、都合3回の感染拡大があり、国内でおよそ40万人が命を落とした。スペイン風邪と闘った文豪たちの姿から、我々は今、何を学べるか?
「僕は今スペイン風邪で寝ています。うつるといけないから来ちゃだめです。熱があって咳が出てはなはだ苦しい」
1918(大正7)年11月2日、芥川龍之介は友人への手紙にこう記し、末尾に「胸中の凩(こがらし)咳となりにけり」という俳句を添えた。呼吸のたびにヒューヒューと音がする自身の病状をこがらしに喩えた一句である。
その翌日には作家仲間への手紙で「スペイン風邪で寝ています。熱が高くってはなはだ弱った。病中髣髴として夢あり。退屈だから句にしてお目にかけます」と書き、末尾に、「凩や大葬ひの町を練る」と、死者の増加を伝える句を記し、「まだ全快に至らずこれも寝ていて書くのです。頓首」と続けた。
芥川の病状はかなり重かったようで、「見かへるや麓の村は菊日和」という辞世の句まで書いている。回復後の11月24日に、漱石の長女と結婚した作家・松岡譲の肺炎入院見舞いとして「僕もインフルエンザのぶり返しでひどく衰弱していた。辞世の句も作った」「御互に今度はと命拾いをしたほうだろうと思う」と書いた手紙を送っている。
新型コロナウイルス同様、スペイン風邪にも「再感染」があったようだ。回復したはずの芥川が再び感染したのは翌年2月。田端の実家に戻り、療養した。半月ほど実家で過ごし、ようやく床を上げ、鎌倉の家に帰宅したのが3月3日。12日に友人に書いた手紙の末文で「目下インフルエンザの予後ではなはだ心細い生き方をしています」と記し、「思へ君庵の梅花を病む我を」との句を書いた。
芥川が2度目の感染から回復した直後に、実父・新原敏三がスペイン風邪で入院してしまった。芥川は病院に寝泊まりして看病したが、実父は3日後に死去。亡くなる前の晩には、芥川の手を取り、自分が所帯を持ったころの話を語り出し、涙を流したという。
世界で5億人の感染者を生み出したスペイン風邪では、数千万人が亡くなったとされる。日本で最初の流行があったのは大正7年8月。3回の感染拡大の波を経て、約40万人が亡くなった。芥川だけでなく、多くの文豪が感染した。