死を招きうるウイルスを警戒したのは昔も今も一緒だ。多くの文豪は過剰なまでにスペイン風邪を恐れた。川端康成はこの時期、感染が広がりつつある東京を避け、伊豆を訪れている。一高生だった大正7年秋、19歳の川端は、スペイン風邪を警戒して伊豆・修善寺から湯ケ島を旅した。この旅で出会った旅芸人一座との思い出を描いたのが後の名作「伊豆の踊子」である。
当時、千葉県・我孫子に住んでいた志賀直哉は大正8年発表の短編「流行感冒」で、徹底したスペイン風邪対策をとった様子を「事実をありのままに」(あとがき)描いている。「流行感冒」の主人公は、感冒を恐れ、医師が勧めるのに娘を運動会に行かせない、女中を街に出すときにも店での無駄話や芝居見物を禁じる。近くの工場で300人規模のクラスターが発生するなか、女中は禁を破って芝居見物に出かけ……という物語。
実の娘を病気で失っていた志賀は「子供のために病的に病気を恐れていた」と書いているとおり、今で言う「3密」を排した。
志賀の「3密回避策」は新型ウイルス感染拡大中の現在にも通用する感染拡大防止策だが、歌人の与謝野晶子の主張も今に通じるものを感じる。大正7年、与謝野の10人の子の1人が小学校でスペイン風邪に感染したのをきっかけに、与謝野家は家族が次々と感染してしまったのだ。与謝野はこの体験を「感冒の床から」と題して「横浜貿易新報」(現・神奈川新聞)に論評記事を書いた。
「政府はなぜいち早くこの危険を防止するために、大呉服店、学校、興行物、大工場、大展覧会等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか」
今も昔も国は十分な対策を打てなかったようだ。
新型コロナウイルスで大切な人を失わないために、先人の失敗から学ぶことはたしかにある。スペイン風邪は収束まで2年以上かかり、第2波では高い死亡率となった。新型コロナウイルスの流行が長期化する恐れは多くの専門家が指摘している。油断は禁物だ。(本誌・鈴木裕也)
※週刊朝日 2020年6月12日号