哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
* * *
5月25日、米ミネアポリスの路上で一人の黒人男性が白人警官に押さえつけられて死亡する事件が発生した。「息ができない」と訴えるのを無視して、暴行を続ける警官たちの様子を映した動画が拡散したことをきっかけに、警察の暴力に対する抗議行動が広がった。抗議者の一部は暴徒化した。ミネソタ州では非常事態が宣言され州兵が動員されたが、抗議行動は終息せず、全米に拡大した。
事件の背景には米国における人種差別と、黒人への白人警察官の日常化した暴力が存在するわけだが、事態の鎮静に当たるべきトランプ大統領はツイッターに「どんな困難でもわれわれはコントロールする。掠奪(りゃくだつ)が始まる時、銃撃が始まる」と投稿し、市民への銃撃の可能性を示唆した。ツイッター社はこの投稿が「暴力を督励するもの」と判断して、警告表示を付した。
「掠奪が始まる時、銃撃が始まる」はベトナム反戦運動と公民権運動の渦中にあった1967年のマイアミで、秩序を保つためには市民への銃撃も辞さないと揚言した警察署長の発言の引用である。
怒る市民を鎮静させ、国民同士の対立を緩和することを本務とするはずの大統領が、全米で正義を求めて立ち上がった市民たちをひとしなみに「掠奪者・破壊者」と決めつけ、連邦軍まで投じて鎮圧すると脅したことに市民は強い怒りと悲しみを同時に感じている。
フォロワー8640万人を誇る歌手テイラー・スウィフトはこの発言に対して、きっぱりと「11月にはあなたを選挙で落とす」と宣告した。多くのセレブがこれに続き、企業も次々と差別反対の立場を明らかにしている。ツイッター、アマゾン、グーグル、ユーチューブ、ネットフリックスなど主だったメディア関連企業が足並みを揃えた。
この原稿が掲載される時点で事態はどう展開しているか予測がつかない。しかし、国の内外に「敵」を創り出し、敵を排除しさえすれば米国は再び偉大になれるというトランプのシンプルな手法が破綻したことは、現在の事実が証明している。
トランプのような人間を大統領に選んだことで、米国民はいったいどれほどのものを失うことになるのか。
※AERA 2020年6月15日号