◯史跡に残る歴史の証言

 実際、以後大勢力となる中臣鎌足を祭神として、死後10年も経たないうちに創建された神社・談山神社(江戸時代までは多武峯妙楽寺)が今尚その姿を今に伝えている。談山の名の由来は中臣鎌足と中大兄皇子がこの地で政変の談合を行ったということに由来している。

 また中大兄皇子(天智天皇)は、遷都した近江大津宮で即位し、没した(異説もあり)とされ、皇紀2600年を記念した1940(昭和15)年に、宮址近くに天智天皇を祭神とした近江神宮が創建されている。この近江神宮が競技かるたの聖地となっているのは、「小倉百人一首」の第1首目「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露に濡れつつ」の歌を詠んだことにちなんでいるのだが、この地に都があったのは、天智天皇の治世であるわずか5年足らずのことであった。

◯遷都を繰り返した飛鳥時代

 大化の改新で行われた多くの改革は、蘇我氏とともに物部氏と戦った聖徳太子が起草したものと言われている。聖徳太子が摂政となった時から奈良時代へ移る時代を飛鳥時代と呼ぶが、日本が国家へと動きだした激動の時代と言えるのかもしれない。

 そして、この時代に力を持った人たちが残した神社仏閣は、世界でも有数の宝となっている。たとえば、蘇我氏ゆかりの「飛鳥寺」、物部氏の総氏神である「石上(いそのかみ)神宮」、聖徳太子ゆかりの「法隆寺」「四天王寺」などである。

 さて、乙巳の変で蘇我氏の専横にがまんならず謀反を起こした中臣鎌足の子孫は、やがて我が世の春をほしいままとした藤原氏となり、大海人皇子は太子であった中大兄皇子の子に対し、壬申の乱と呼ばれる内乱を起こし天皇の座につく。因果はめぐる、歴史の教訓である。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

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