荒井はその中である気づきを得る。志望をする学生は新潟出身で県外の大学に出た学生も多い。しかし、そうした学生は、驚くほど新潟日報のことを知らないし、そして新潟のことも知らなかった。しかし知らなかったのは、彼ら彼女らの責任ではなく、自分たちが知らせようとしてこなかったからではないか、そしてそれは新潟日報だけでなく、他の新潟の企業にも言えるのではないか。

 新潟は明治期には、豊かな米処であったことと、北前船による商業の活発化で、東京をしのいで日本一の人口を誇っていた。その新潟も、1998年を境に徐々に人口が減り始め、県外への転出の超過は25年続いている。進学、就職を機に首都圏に出て行ってしまうのである。

 荒井は、1993年に「新潟をよく知ってもらいメジャーにする手伝いができれば」と新潟日報に入社したが、「あれから27年が過ぎたのに、新潟を巡る状況は何も変わっていなかったことに愕然とし、変えてこられなかったことを深く反省した」という。

 新潟の最北、最東、日本海に面する町に村上市がある。江戸時代、村上藩と呼ばれたこの地に、青砥武平治(あおとぶへいじ)という藩士がいた。村上藩は、かつて鮭(サケ)の漁獲で潤っていたが、しかし乱獲によって漁獲量がゼロに近づき、藩の財政は危機に瀕した。

 青砥は、鮭が産まれた川に帰って産卵する母川回帰の習性を知り、遡上する鮭を保護して村上藩の川で産卵をさせ、増やすことを思いつく。この自然養殖は、「種川の制」と呼ばれ、一度は枯渇しかかった鮭が、村上藩の川に戻ってくるようになる。

 この青砥武平治と同じことを新潟日報ができないだろうか? 荒井は、2020年夏に行われた新潟日報グループ事業アイデアコンテストに、県外に出て行った学生と、新潟県をもう一度つなぐ「にいがた鮭プロジェクト」を提案し、見事採用されることになる。

 その「鮭プロジェクト」には、編集、営業、事業、販売と部局横断した「7人の侍」が集められ、2021年4月から、その立案が始まった。荒井は、総務部を出てチームリーダーとなった。

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