厳密にいえば、これは、報道と国民を裏切る悪質な職権乱用である。当時発覚していれば、かかわった検事たちは訴追されてもおかしくなかった。それこそ政治につけ込まれる隙を与えただろう。伊藤氏は、当時捜査チームの一員としてそれを知る立場だった。
実は、特捜部では、この種の「偽情報」工作は、日常茶飯事のようにある。90年代に特捜部に在籍した検察幹部は「上層部が捜査情報を流している疑いがあると、『偽情報』を入れて報告することがある。それがメディアに見事に漏れて『犯人』を特定したことがあった」と筆者に「告白」した。
検察は権力だ。「絶対的権力は絶対に腐敗する」(ジョン・アクトン)の格言を引くまでもなく、検事は常にその矜持(きようじ)を持っていないと、起訴独占、起訴裁量の権限を握るおごりやオールマイティ感が、つい無意識に顔を出す。それは、検察の暴走につながりかねない。
伊藤氏が、記者逮捕につながった偽情報の一件を死の間際に明らかにしたのは、結果として、その記者を傷つけたことへの懺悔とともに、後輩検事たちへの戒めも込めたのではないか。
同時に、ときに検察権力との距離感が怪しくなりがちなマスコミ側にも「油断すると、君たちひどい目に遭うぞ。権力監視の本来の使命を忘れるな」と忠告しているようにも受け取れる。
「黒川騒動」は、「検察人事の政治からの独立」と「検察に対する民主的チェック」のバランスをどうとるか、という重い課題を浮上させた。この構造的矛盾を解消しない限り、何度でも同じことは起きる。困ったとき、また、検察と国民は、伊藤氏の視点に戻ることになる。この本は、そのことを再認識させてくれる。