この(2)に田中(角栄)軍団がかみつくのである。1983年2月の衆院予算委員会で石井一衆院議員は「検察の独りよがりの解釈だ」などと追及。法務省側は「個人的な著作物での見解だ」といなしたが、秦野法相の人事介入とも連動した検察側への揺さぶりだったのかもしれない。
秦野氏は法相退任後に著した『何が権力か。』(講談社)で、「在任中に本省スタッフを通じて書き直すよう勧めた」と明かし、伊藤氏は検事総長になった後の86年に新版を出し、問題の箇所を削除。「法務大臣と検事総長の意見がくいちがったというような場合に、検察権を代表する者としての検事総長は、指揮が違法でないかぎりこれに盲従するという態度をとることは許されないものとしなければならない」と記した。
根っこのところで節は曲げなかった。要は、検事総長の腹次第。この記述が、その後、事件捜査などで政治と対峙するときの検察側のスタンスのベースとなり、今に至る。
■介入拒否を支えるのは「国民の信頼」
政治の側の人事介入を、伊藤氏や藤島氏ははねつけることができたのに、稲田(伸夫)氏らが断り切れなかったのはなぜか。資質の違いという意見もあるかもしれないが、私は検察をとりまく環境の激変が背景にあると考えている。検察は国民の信頼を基盤として成り立つ組織だ。この「国民の信頼」がキーワードとなる。
伊藤氏が検察人生を生きた時代、敗戦後から昭和末期までの日本の社会・経済システムは、自民党の長期政権のもと大蔵省を中心とする官僚システムを核とした護送船団方式で運営されてきた。そこでの検察の使命は、官僚システムに介入して利権を貪ろうとする政治家からそのシステムを守ることだった。
つまり、政界汚職の摘発。間欠的であれ、それを果たしていれば、世論は検察の応援団でいてくれた。その象徴が首相の犯罪を暴いたロッキード事件の摘発だった。法廷で元首相側と死闘を繰り広げる検察に対し、世論は熱いエールを送った。だから、秦野氏の人事介入に対し検察側は強く出られた。