裁判をめぐり、弁護側は心神喪失による無罪を訴える構えを見せていた。だが植松死刑囚は面会で「心神喪失なら無罪というのは間違っている」と主張し、死刑の判決を受けても控訴しないとも言った。

 自分の命をどう思っているのだろうか。初公判が2週間後に迫った昨年12月24日の面会。「生きたいという気持ちはあるか」と聞いた。

「もちろん、もちろん」

 こう言った後だった。植松死刑囚は私の指先に目を留めた。

「あ、神宮司さん結婚されたんですね。おめでとうございます。名字何になったんですか?」

 この日はたまたま、初めて結婚指輪をつけて面会にいった。重い話題の最中の思いがけない返答に、私はすぐに言葉を継げなかった。

 植松死刑囚はこんなことも言った。

「劣等感がある」「人の役に立ちたい」

 事件を起こす動機としてはあまりに短絡的で、飛躍が大きい。

 だが他の誰かと自分を比べ、落ち込むことは私もある。「人の役に立たなければ」という空気を、私自身も感じることがある。植松死刑囚は、自分と通じる、同じ時代を生きる人間なのだと思い知らされた。

 植松死刑囚は、事件を起こしたことで、自分が人の役に立つことができたと思ったのだという。いのちをふみにじる行為であること、悲しむ人がいることが、なぜ分からなかったのだろうか。今も理解することができないのだろうか。いのちの尊さを認めてしまうと、自分自身でいられなくなるこわさでもあるのだろうか。

 死刑判決が出て、控訴期限が迫った3月24日の面会。「控訴はしない。弁護士が控訴しても取り下げる」と語った。死刑判決が確定すれば、面会は難しくなる。私は、これが最後の面会になるかもしれないと意識した。

 30分の制限時間も終わりに近づいたころ、植松死刑囚(当時は被告)は急にこう切り出した。

「最後のお願いをさせてもらうと、餃子に大葉を入れて作っていただきたい」

 あまりに場違いな言葉だが、植松死刑囚は真剣だった。

 実際に最後の面会になったのは、判決が確定したあとの4月2日。「最後に伝えたいことは」。制限時間間際に尋ねた。

「餃子に大葉を入れたほうがおいしいです」

 植松死刑囚は変わらぬ口調で繰り返した。感情を高まらせることも、逆に落ち込むこともなく、別れ際には「お元気で」と言った。

 同じ時代を生きる普通の人間に見える瞬間がある一方で、言動はあまりに非現実的でつかみどころがない。何度会っても、心の奥底は見えないという思いが募った。(朝日新聞横浜総局記者・神宮司実玲)

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