芸人の追悼番組をどのように作るべきかということには、独特の難しさがある。芸人が生業としている「笑い」は、涙とは最も相性が悪い。亡くなった歌手が歌っていたときの映像は人を感動させることがあるが、亡くなった芸人が演じていた漫才やコントの映像は、どういうふうに受け取るべきか悩ましい。感動は笑いを薄れさせ、笑いは感動を薄れさせてしまう。
1996年に横山やすしさんが亡くなったときにそれを痛感した。当時、各局で彼の追悼番組が放送されていた。やすしさんは生前、西川きよしと「横山やすし・西川きよし(やすきよ)」を結成して、漫才師として一時代を築いていた。
彼の追悼番組では、やすきよの漫才の映像が流れて、スタジオにいるタレントが「やっぱり今見ても面白いですね」などとコメントしていた。それを見ていてどうにももどかしい気持ちになったのを覚えている。
もちろん、漫才師としてやすきよが偉大だったことに疑いの余地はないのだが、追悼番組で湿っぽい空気の中でその漫才の映像を流されても、「やっぱり面白い」以外のコメントを絞り出すのは難しい。実際には、笑えないとか笑いにくいと感じるのが普通の感覚ではないか。
特に、やすしさんは型破りなキャラクターで知られていた。酔っ払ってテレビに出て暴言を吐いたり、私生活でトラブルを起こして警察のお世話になったりするような人物だった。やすきよの漫才では、そんなやすしさんのキャラクターが生かされていた。追悼番組で「亡くなった人を悪く言ってはいけない」という空気の中では、やすきよの漫才をありのままの形で楽しむのは困難だった。
今年3月に亡くなった志村けんさんの追悼番組に関しても、同じことを感じることがあった。もちろん、志村さんのコント自体は面白いのだが、本来ならば追悼番組の湿っぽい空気の中で楽しむものではない。芸人の追悼番組を作る上で、そこが最も気を使う部分であり、最も難しい部分でもある。