沖縄の女児が3人の米軍人に暴行された1995年9月の「少女暴行事件」。事件の衝撃は県民の怒りに火をつけ、日米安保体制を足元から揺るがした。あれから25年。浮き彫りになった課題は置き去りにされたままだ。AERA 2020年9月7日号で掲載された記事から。
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1995年10月21日。沖縄県宜野湾市の「県民総決起大会」の会場は押し殺したような怒りと重苦しさに包まれていた。
前月の9月4日におきた米海兵隊員ら3人による少女暴行事件に抗議するこの集会には、沖縄の本土復帰以降最大規模の8万5千人(主催者発表)が参加。事件は、72年の復帰後も在日米軍専用施設の7割超が集中する沖縄の負の断面を県民にまざまざと見せつけた。
固唾をのんで見守る聴衆を前に、壇上の大田昌秀知事(当時)が最初に口にしたのは、被害者の少女に対する謝罪だった。
「行政の責任者として、いちばん大事な幼い子どもの人間としての尊厳を守ることができなかったことを心の底からお詫び申し上げます」
会場でこのシーンを胸に刻んでいたのが沖縄県議の山内末子さん(62)だ。同県石川市(現うるま市)の市議に初当選してほどない時期だった。
「私も少女に『申し訳ない』という思いを抱きました。同時に、日常と隣り合わせの場で起きた事件に知事がこんな形で謝罪しなければならない沖縄の状況を『悔しいな』と、やりきれない思いも募りました」
学習塾を経営していた山内さんは、3人の息子の子育ての傍らPTA活動にも熱心に取り組んだ。男性議員ばかりだった市議会に新風を、と白羽の矢が立ち、引き継ぐ地盤も組織の支援もない中、選挙を戦い抜いた。初の女性市議として一歩を踏み出したとき、日米政府をも揺るがす事件に直面したのだ。
事件を知ったのは発生翌日。地元紙が報じる数日前だ。姉が経営するレストランの常連だった地元紙の記者から事件の概要を聞いた。「記事にしないといけないのか」。記者は、顔なじみで信頼関係もある山内さんに苦しい胸の内を明かした。