大田知事はその後、米軍用地の使用に関わる代理署名拒否を決意する。代理署名とは、米軍用地への提供を拒む地主に代わって知事が代理で署名し、民有地の強制使用を可能にする手続きだ。知事がこれを拒否したことで、堅牢(けんろう)な日米安保体制を足元で支える沖縄の米軍基地の一部が一時、米軍による「不法占拠状態」となる事態を招いた。
96年4月、日米が「普天間飛行場の5~7年以内の全面返還」を発表。これは大田知事の姿勢を軟化させる「切り札」だったとの見方もあるが、山内さんはこう指摘する。
「少女暴行事件を機に県民の怒りが大きなうねりにならなければ、日米政府は『普天間返還』に動かなかったはずです」
だが、普天間返還は県内に代替施設を造ることが条件とされ、移設先は名護市辺野古沖に決められた。辺野古新基地建設は県民の分断と反発を招き、20年以上が経過した今も完成のめどは立っていない。山内さんは「本来普天間の危険性除去が目的だったはずなのに、辺野古に新基地を造ることが主になっている。本末転倒です」と嘆く。
とはいえ、政府が「県外移設」を模索した時期もあった。民主党の鳩山政権は可能性を探ったが、結局「辺野古」に回帰した。「政権交代した暁には辺野古新基地建設がなくなる」との期待を抱いた山内さんは08年の県議選で民主党公認候補として当選した。だが、鳩山政権の挫折とともに、「約束が違う」と離党、無所属に戻った。
14年11月には「辺野古阻止」を掲げる翁長雄志氏が知事に当選。保革を超える「オール沖縄」態勢を構築した。一方、沖縄県が政府と対立を深めるのに伴い、日本本土では「沖縄バッシング」が勢いを増していく。
山内さんが忘れ難いのは13年1月の「東京行動」だ。
沖縄県内の全41市町村長と議会議長らが署名した首相あての「建白書」を携え、県内の関係者らとともに東京・銀座でデモ行進した。建白書は、普天間飛行場の撤去とオスプレイ配備撤回、県内移設断念などを求める内容だ。この際、日の丸や旭日旗を持つ人々に囲まれ、「売国奴」と罵声を浴びせられた。