放送作家でコラムニストの山田美保子氏は川島さんについて「取材を受けたとき、自分が何を言えば視聴者や読者を喜ばせられるか瞬時に理解し、キャッチーでセンスにあふれるフレーズを放つ、唯一無二の存在だった」と評している(「NEWSポストセブン」2015年9月26日付)。逝去時の報道を見ると、多くの芸能リポーターやスポーツ紙、週刊誌の記者らからも同じ感想が述べられており、「頭の回転が早い、サービス精神旺盛な女優」として業界で有名だったようだ。
「亡くなる1週間前まで舞台に立っていた川島さんは、腹水が5リットルも溜まり、公演の合間に水を抜く治療を受けるなど、まさに満身創痍でした。夫でパティシエの鎧塚俊彦さんは告別式の喪主あいさつで、医師から『あんなからだで舞台に立てたのは奇跡』と言われたことを明かしていました。川島さんは、自身のからだにできた腫瘍を『戒め君』と呼び、自分を戒めるためにやってきてくれた存在だと前向きにとらえていたそうです。川島さんのことを振り返るたびに『がんばらなきゃ』という気持ちにさせてもらえるのは確かです」(前出の記者)
TVウォッチャーの中村裕一氏は、改めて彼女の軌跡についてこう振り返る。
「ドラマ『失楽園』での大胆な演技やワインへの造詣の深さから“オトナの女性”というイメージを抱いている人が多いと思いますが、それ以前、10代後半から20代にかけて、いわゆる女子大生タレントの走りとして活躍していた川島さんの姿も忘れられません。1981年には青山学院在学中に文化放送の深夜ラジオ『ミスDJリクエストパレード』のパーソナリティを務め、1982年からは中京テレビ制作のバラエティ番組『お笑いマンガ道場』のレギュラー回答者としてお茶の間に笑いをふりまき、親しみやすいキャラクターとして人気でした。ちなみに、ヘアヌード写真集を出版したのが33歳、『失楽園』に出演したのが37歳。流れが早く、浮き沈みの激しい芸能界でしっかりと実績を残せたのはセルフプロデュースの賜物でしょう。最後まで“自分らしく生きる”ことを貫いた彼女の代わりとなる人はおそらく今後も出てこないと思います」
生きていたら今年、還暦を迎えた川島なお美さん。強く、やさしく、勤勉で、サービス精神旺盛で、どんな困難な状況でも常に前を向き続きた彼女だったら、コロナ禍の今、いったいどんな言葉を紡ぎ出してくれたのだろう。(高梨歩)