NHK大河ドラマ「麒麟がくる」が注目されるなか、あの信長に仕えた外国人侍がいたことは、あまり知られていない。黒人で、名を「弥助(やすけ)」といい、本能寺の変に遭ったが生き延びた。400年余り前の、謎に満ちた足跡を追ってみた。
「敵は本能寺にあり」
天正10(1582)年6月2日、織田信長を家臣・明智光秀が討つ、という一大事が起こった。信長は自害したとされるなか、主君を守るために尽くした武士がいた。ほかならぬ弥助だ。
「弥助は、イエズス会のイタリア人宣教師・ヴァリニャーノの従者兼護衛として日本にやってきました。宣教師たちとともに弥助が京にやってきたときには、彼らの姿をひと目見ようとした人々で大騒ぎになったようです」
そう語るのは、日本大学法学部准教授で『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』の著者、ロックリー・トーマスさんだ。自らと同じ外国人が、なんと戦国時代の日本で活躍したことに興味を抱き、弥助の研究を続けている。
信長に仕えた太田牛一が執筆した信長の一代記「信長公記」には、弥助は年齢は二十六、七のようで、体は黒く、健康そうであり、十人力の力がある、といったことが記されている。
天正9年2月、信長は弥助の存在を知って宴を開き、そこへヴァリニャーノとともに弥助を呼んだ。やがて弥助を小姓として召し抱えることになった。自身の統治した近江・安土に私宅だけでなく、給料として扶持(ふち)、衣服、鞘付きの腰刀も与えた。異例の待遇だったとされる。
「信長にとって弥助は有益な人物だった、と考えられています。珍しもの好きでしたし、弥助から海外事情を詳しく聴きたかったのでしょう。信長は戦略的にも経済的にも、アジアに興味を持っていましたから」
そう説くのは「麒麟がくる」に資料提供している歴史学者の小和田泰経さんだ。
小和田さんは、イエズス会の宣教師たちは調子のいいことや自分たちに都合のよい話しか信長の耳に入れない傾向があったが、弥助の話しぶりはひと味違ったのではないか、とみている。