"世界のミクニ"として有名なフランス料理シェフ・三國清三さん。書籍『三流シェフ』の帯に「誰より苦労しても、その苦労を見ている人は1%にも満たない」とあるように、その名は知っていても、彼の半生について詳しく知っている人は少ないかもしれません。
同書は三國さんが自身の生きざまについて記した自叙伝。話は半世紀以上前、北海道の増毛(ましけ)という町で三國さんが貧しい漁師の子として育つところから始まります。少しでも家の手伝いをするべく、小学校にもほとんど行かずに父とともに海に出るのがあたりまえだった少年時代。戦後、日本が右肩上がりで豊かになっていく中、「将来に夢を抱いたり、不安を感じたこともない。生きるだけで精一杯だった」(同書より)という日々を過ごします。
そんな三國さんが自身の夢を見つけたのは、中学卒業後、札幌の米屋で住み込みで働きながら夜間の専修学校に通っていたとき。三國さんが生まれて初めてハンバーグを食べて衝撃を受けていると、「これは家庭のハンバーグ。グランドホテルのハンバーグはこんなもんじゃない」と言われたそうです。その瞬間、三國さんは「ぼくはグランドホテルのコックになって、日本一のハンバーグを作る」(同書より)と心に決めます。
しかし中卒だった三國さんは、札幌グランドホテルの採用試験を受ける資格がなく、正攻法での入社は不可能でした。それでも諦められず「どこかに抜け道はあるはずだ」と考えた三國さんは、驚きの手段に打って出ます。そして社員ではないものの、ホテルの社員食堂の調理場で働くチャンスを得ることができ、ここから彼の料理人人生の第一歩が始まるのです。
上京してからは、帝国ホテルでの仕事は皿洗いであるにもかかわらず、初代総料理長の村上信夫さんの料理番組のアシスタントを務め、さらに20歳のときには、村上さんからスイス大使の専属料理人としてジュネーブに行くよう命じられます。
コネも学歴もないところからの大躍進は、三國さんが強運の持ち主だったからなのでしょうか。同書を読めば、その陰には常人を寄せ付けないような懸命さ、そして情熱が隠されていることに誰もが気づくはずです。どんなに不利な状況でも自分にできることを探し、雑用も買って出る。そして虎視眈々と時機をうかがい、チャンスをつかんだからには人一倍の熱量でそれに立ち向かう――。
働くのは子どもの頃からちっとも苦ではなかったという三國さん。「海の上では、言われてから動いたのでは遅い。なにも言われなくても父親の動きの先を読んで、自分がしなきゃいけないことをする。言われたことをするだけならだれにでもできる。仕事を手伝うというのは、本来はそういうことではない」(同書より)との言葉は、料理だけではなくすべての仕事に通じる哲学ではないでしょうか。
このほか、ヨーロッパでの料理人修行や偉大な恩師たちとの出会い、ミシュランとの決別など、さまざまな思い出が書かれている同書。2022年末に37年間続けた「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉店し、70歳で新たな夢を叶えようとする三國さんの情熱の源に触れることができる一冊です。
[文・鷺ノ宮やよい]