外山:岡本さんと私では、家族に対する価値観が全然違いましたが、疑似家族についてどう思いましたか。
岡本:何を家族って言うの?と思いました。マナに「家族って何?」というセリフがあるんですけど、それをずっと思っているんです。だからこそ、自分が家族だと思えば家族なのではないかと、私自身は思っています。これからいろんな人生経験をして自分の家族もできたら、そこでまた考えが変わるかもしれませんが、自分が大切で愛おしいものを家族と言って何が悪いのか。なぜそれに疑似をつけるの?という感覚は、私もマナと似ていますし、すごくよくわかります。「疑似家族にさせたのは大人じゃないか」というような反発心がありますね。監督はどうですか。
■わからないけど諦めたくはない
外山:多くの映画において疑似家族は、血よりも濃い絆、大事なのは血縁だけではないよね、というところにフォーカスされることが多い。でも、私には血縁の強さは、良かれ悪しかれインスタントの関係性では簡単には越えられない、という思いがあります。「茶飲友達」では、マナがそこを最後に突きつけられて、家族という価値観がわからなくなってしまう。受け入れることもできず、でも拒むこともできない。私がそこを着地点にしようと思ったのは、現実における家族の尊さみたいなことを、自分自身が強く持っているからなんですね。でも、実際の世の中ではそれを選べない人がいるし、環境によってはそこに懐疑的になってしまう方もいます。だから、みんなにとっての家族って何だろうということを突きつけるような話にしたかった。「チャンチャン」では終わらず、「どうすればいいんだ、これ?」という映画の着地点です。自分が事件を一番最初に知った時の「(売春組織を)解散して高齢者はどうなるんだ」という解けないわだかまりみたいなものが強く残る作品にしたいと思っていました。
岡本:私はこの映画に出演して改めて正しいことがわからなくなりました。マナは「正しいだけが幸せじゃない」と2回言います。そう言うということはマナの中で正しいことがなんとなくあると思うんです。賛成できない正しさみたいなものが。撮影時は自分の中でもマナとして思ったことがあったんですが、今改めて何が正しいことかと問われたら、何もわからないからこそこういうドラマ作品、映画があるのだと思います。そこを考えることを諦めたくないですね。
外山:善と悪では分けられないものが世の中にはあります。同調圧力とか法律とかそういったもので強引にジャッジしてしまう。本作はそのジャッジが正しいまなざしなのかを考えられる作品になったかな、と思っています。登場人物全員が寂しさを抱えています。特殊な役は一人も出ず全員が一般の人。だから、見る方は必ず自分自身と重なる境遇のキャラクターがいるはずです。そういうところも楽しんでいただけたらと思っています。
(聞き手/ライター・坂口さゆり)
※週刊朝日 2023年2月10日号