すべての曲が、まったく色褪せない。1970年代後半に一世を風靡し、日本の音楽業界に多大な影響を与えたゴダイゴ。ボーカルを務めるタケカワユキヒデさんに青春時代の話を聞いた。
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「音楽に関しては、誰にも負ける気がしなかった。小さい頃からずうっと、音楽は自分にとっての最強の味方で、なおかつ必殺技だったので」
2月6日に東京で、11日に大阪で開催される「銀河鉄道999 シネマ・コンサート」は、映画のセリフや効果音はそのままに、音楽パートをフル・オーケストラが生演奏するエンターテインメントショーだ。タケカワさんは、そこで映像とフル・オーケストラの演奏をバックに生歌を披露する。音楽家を志した経緯について語ってもらおうとすると、タケカワさんは冒頭のように発言して、顔を綻ばせた。
とはいえ、12歳でビートルズに出会ってから25歳で「ガンダーラ」が大ヒットするまでの13年間は、「英語の曲を歌いたい」というこだわりゆえの、紆余曲折を経験していた。
「最初に歌うことの楽しさに目覚めたのは幼稚園のときです。クリスマス会で披露した曲のソロパートを担当し、拍手喝采を浴びて、『そうか、僕は歌がうまいのか』と(笑)。でも、家に帰ると途端に“みそっかす”気分を味わうハメになるんです」
両親ともに音楽家。2人の兄も、10代でジャズやラテン音楽に目覚めるほどに早熟だった。ジャズでは長兄がピアノ、次兄がドラムを叩くことから、ユキヒデ少年には強引にウッドベースが買い与えられ、中学1年生でジャズの名曲「枯葉」のベースラインをマスターするよう命じられたこともある。それまでベースなど一度たりとも触ったことがないのに、だ。
ビートルズと運命の出会いを果たしたのも12歳の頃。
「映画『A HARD DAY’S NIGHT』を父と、3歳年上の次兄と3人で見に行ったあと、えも言われぬ感動に包まれたんです。その感動の正体がわからないまま、熱に浮かされたように買ったレコードが『ビートルズNo.5!』。それ以来、日常はビートルズ一色になって。中学では、楽器の弾けない同級生とビートルズのコピーバンドを結成しました」
昼食はコロッケパン1個と決め、小遣いを貯めて月賦で楽器を調達した。当時、バンドは不良がやるものと相場が決まっていたが、ユキヒデ少年たちのバンドは健全そのもの。ディスコの前身のような店で演奏し稼いだバイト代は全て楽器代に消えた。