「僕自身は、小学生のときにソルフェージュという楽譜の読み書きをマスターして以来、いつでもどこでも作曲ができるようになっていた。でも、バンドでオリジナルの曲を作るには歌詞がいる。歌詞は絶対に英語じゃなきゃ嫌だったんですが、メンバーの一人が日本語で歌詞を書いて『これを英語に直して曲を書け』と言う。和英辞典を引きながらインチキな英語に直して、サビと1番の半分ぐらいまで訳し、そこで力尽きた。曲をつけたら、すごいカッコいいのができたものの、英語の歌詞を作るのがあまりに苦行だったので、曲作りはしばらく封印することにしたんです」
高校2年のときにバンドは解散。そのとき父親と初めて進路の話をした。
「ちょうど、授業中に詞と曲が同時に降りてくる体験をして、一気に作曲に対する封印が解けた時期でした。親父に、『大学には行かず、音楽をガンガンやりたい』と言ったら、『それなら東京芸大の作曲科に行け』と。それで急転直下、僕は音大の受験生になるんです」
幼い頃からバイオリンは習っていたが、その他の楽器は全て見よう見まね。作曲をするときも楽器は使わず、歌詞の周りに手書きの五線譜を書いて、頭に浮かんだメロディーを譜面にするという手法。芸大を受験することに決めて、初めてピアノを本格的に習った。
「でも、とても受験には間に合わず、友人のまねをして横浜国大を受験したら運よく受かっちゃって、仮面浪人を1年(笑)。そのときに音大はもう諦めて、ずっと気になっていた英語を大学で本格的に勉強しよう、と上智の英文と史学科を受けたらなぜか史学科だけ受かって。入学金と授業料を振り込んだら、早稲田の一文も受かっていて。そこで、『やっぱり早稲田に行きたい』って親に言って授業料を払ってもらったら、本命の東京外大も受かってたんです。せっかくなので、授業料を払った半年は、3枚学生証を持っていました。上智はコンサートの切符を売りに、早稲田は英語の授業を受けに行くために通ったかな(笑)」
(菊地陽子 構成/長沢明)
タケカワユキヒデ/1952年生まれ。埼玉県出身。音大教授の父を持ち、5歳からバイオリン、10歳から作曲を始める。75年東京外国語大学在学中にソロアーティストとしてデビュー。翌年ゴダイゴ結成。作曲とボーカルを担当し数々のヒットを生む。現在は音楽活動のほか、エッセイなどの執筆、テレビ・ラジオ出演、講演、コンサートなど幅広く活躍。
>>【後編/タケカワユキヒデ 「銀河鉄道999」は「世界中どこを探してもなかった曲」】へ続く
※週刊朝日 2021年1月29日号より抜粋