人間の業(カルマ)は行為や想いによって形成されるように思います。過去の楽しい想いは、まあいいとして、つらい想いなどはさっさと忘れてしまった方が、生き易いように思います。生きにくい理由は多分、執着した記憶が原因だと思います。断捨離は物に対する記憶の執着を捨てることです。だから物を捨てることによって記憶の執着も処分できるというわけですが、もし人間が悟っているなら、物を持っていても、その物に対する執着がなければ、いくら物を持っていてもいいということです。お釈迦さんはもし住むなら、煩悩だらけの町の見える所に住んで、それにもかかわらず煩悩にとらわれない心を鍛えよと言っています。その方がかえって修行になるというのです。と思えば記憶を所有しながら、その記憶の執着から解放された自由こそが本当の自由ということになるんじゃないでしょうかね。
チベットの僧侶は砂を手に握って、砂を絵の具に代えてマンダラを描きます。マンダラとは願いです。何日もかけて物凄い精密な美しいカラフルなマンダラを地面に描きます。そしてやっと完成しました。「ウワー、なんと美しいマンダラ絵だこと!」と感動する間もなく、何日もかけて描いたこのマンダラの力作を、完成と同時に、描き上げたその手で、アッというまに、ぐじゃ、ぐじゃに壊して消してしまいます。
マンダラが存在していたのは、描かれたプロセスの記憶だけです。完成は一瞬で、次の瞬間、消してしまいます。マンダラの作品の完成がそのまま破壊です。頭に残るのはマンダラの記憶だけです。実体は存在しません。これは究極の芸術です。実体はありません。記憶の中にしかありませんが、これもやがて消滅していくでしょうね。僕は記憶とはマンダラの砂絵だと思います。記憶は消滅する運命なのです。だからそれでいいんです。そんな実体のない記憶にいつまでも執着するのはおかしいということになりませんかね。
記憶というのは過去の時間です。記憶と共に生きるということは過去の時間の中で生きているということでしょう。記憶に執着することは過去に執着することだと思います。僕達が生きているのは過去でも未来でもない。たった「今」というこの瞬間にしか生きていないのです。ラマ教のマンダラ絵は「今」「今」「今」の瞬間を留めた絵です。だから完成と同時に「今」も消えるわけです。当然描いている最中のプロセスは過去なので、さっさと過去を消してしまうのです。
だから、過去の記憶は全て幻想ということになりませんかね。
横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰
※週刊朝日 2023年2月10日号