2011年3月13日、津波で壊滅した宮城県南三陸町中心部=山本裕之撮影 (c)朝日新聞社
2011年3月13日、津波で壊滅した宮城県南三陸町中心部=山本裕之撮影 (c)朝日新聞社
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 東日本大震災から、まもなく10年を迎える。震災直後の宮城県南三陸町での極限の日々を克明に綴った『災害特派員』の著者で、気鋭のルポライターとしても知られる朝日新聞記者の三浦英之氏が、あの日、津波被災地の最前線の現場で何を見て、何を感じたのか――。思いを寄稿した。

*  *  *

 何度も同じ夢を見た。匂いや手触りのある不思議な夢だ。

 最初に立ち上がってくるのは「音」である。暗闇の奥から「シュー、シュー」という漏出音が鼓膜を揺らす。次は「匂い」だ。微かに漂うエタンチオールの匂いから、どこかでプロパンガスが漏れているのだと睡眠下の意識が理解する。

 朦朧とした意識の中で、私はいつも倒壊した家屋の上を歩いている。なぜか海まで行こうと決めている。五寸釘が突き出し、ゆらゆらと不安定に揺れる木材の上を綱渡りのようにして歩いていると、海辺のガードレールが突然視界に飛び込んでくる。グニャグニャにねじ曲げられた鉄の帯には――まるで捕虫用の粘着シートのように――いくつもの遺体が絡め取られている。多くが服を着ていない。首から上がない人もいる。

 私は悲しんではいない。戦(おのの)いてさえもいない。現実と思考を切り離し、「この光景をどうやって記事にしようか」と文章の構成を考えている。

 それでも、不意に足を踏み入れようとした半歩先に、自転車にまたがったまま半分泥に埋まった男の子の遺体を目撃したとき、私は自分が崩壊するのではないかという恐怖に襲われ、無意識のうちに空を見上げる。目の前が曇り、自分が泣いていることに気づく――。

 被災地での勤務が終わり、現場を離れてからも見続けるそれらの夢を、一方で私は決してネガティブなものとしては捉えていなかった。強度なストレス下に置かれた人間がそのような夢を見ることはごく自然な反応であるように思えたし、それらはむしろ、「あの日のことを忘れるな」と私をあの日につなぎとめてくれている碇のような役割を果たしていると信じてもいた。

 被災地に勤務していたとき、東京からバスで現地を訪れた小学生たちに聞かれた。

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「どうしてこんなに多くの人が死んだのですか」の問いに…