そして、そんな命を守るべきはずの無数の人工物のなかで、私は「メディアはこれまで一体何を伝えてきたのだろう」と絶望した。今目に映っているすべては、先人たちの警告を十分に語り継いで来ることができなかった、メディアによって作り出された光景ではなかったか――。
人を殺すのは「災害」ではない。いつだって「忘却」なのだ。
そう思えた瞬間、私は自分が何をすべきかを明確に理解できるようになったし、あの日の夢を見ることを恐れなくなった。
発生翌日に被災地に入り、18日間最前線を歩き回った。その後、新聞社が新たに設置した「南三陸駐在」として宮城県南三陸町に赴任し、約1年間、現地の人々と生活を共にした。
今振り返ってみても、当時私が伝えることができた事物はほんの一握りに過ぎなかったし、いくつかの取り返しのつかないミスもした。立ちはだかる現実を前に私の技術はあまりに未熟だったし、ある局面では無力でさえあった。
それでも、被災地を這いずり回った日々は私の中に決して小さくないものを残したし、新聞社が特定の災害地域に記者を長期間滞在させ、そこで実際に生活を送らせながら報道を続けさせたことは極めて異例なことだったと思う。この国でジャーナリズムと向きあおうとする限り、災害というファクター(もちろんそこには未知なる感染症との闘いも含まれている)をもはや避けて通ることができなくなった今、私はそうした自らが犯した失敗や反省を――あるいはそれらに伴う苦悩や後悔の断片を――今後、災害報道に携わるかもしれない後輩記者や将来ジャーナリズムの世界に飛び込もうと考えている若者たちと共有できないかと考えた。
いや、もっと正直に記そう。
私は目に見えない摂理のようなものに抗(あらが)ってみたかったのだ。時を重ねていくにつれて、私の記憶は加速度的に薄らいでいくだろう。日々の雑務にかき消され、あの日の夢を見なくなる日がやがて私にも訪れるに違いない。あるいは、それらが「癒え」や「回復」という言葉に置き換えられるものなのだとしても、私はそれらの摂理には従いたくはなかった。
失われてもいいものと、そうでないものが、この世の中にはきっとある――。
あの日以来、私はそんな風に考えるようになった。(朝日新聞記者、ルポライター・三浦英之)
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