「僕が高校に入ったころ、毎日のようにラジオから『イパネマの娘』が流れていました。ものすごく新鮮でした。それがボサノヴァとの出会いです」

 かつてジャズバーを経営していた村上はアメリカの白人のテナーサックス奏者、スタン・ゲッツのレコードをほとんど手に入れて愛聴している。2019年にはドナルド・L・マギン著『スタン・ゲッツ 音楽を生きる』を翻訳。そのジャズ界のレジェンドのゲッツが、ジャンルの枠を超えてレコーディングしたアルバムが「ゲッツ/ジルベルト」だった。

「スタン・ゲッツ、ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、(ジョアンの元妻)アストラッド・ジルベルトによる『ゲッツ/ジルベルト』はリアルタイムで聴きました。最初は『イパネマの娘』だけだったけれど、やがて『デサフィナード』や『コルコヴァード』など、ほかの曲もラジオでかかり始めた。全曲素晴らしい。1964年に、ゲッツとアストラッドがニューヨークのジャズクラブ、カフェ・オー・ゴー・ゴーで共演したライブアルバム『ゲッツ・オー・ゴー・ゴー』も、すぐにレコードを買いました」

「ゲッツ/ジルベルト」はグラミー賞最優秀アルバム賞をはじめ数々の賞を受賞した。その一方で、ゲッツとジルベルトの不仲、アストラッドとゲッツの不倫、金銭トラブルなど、数々のエピソードも伝えられている。

「あのアルバムでは、ブラジル生まれの音楽とアメリカのジャズ、二つの文化、あるいは二つの“海流”と言っていいかもしれませんが、それらが真っ向からぶつかった。衝突によって生じる輝かしさ、混乱、スリル……が感じられます」

 アルバムの前、ゲッツはヘロイン中毒で実刑判決を受け、半年の服役後にスウェーデンへ移住。しばらくジャズから距離を置いていた。

「帰国すると、アメリカのジャズシーンが変わっていました。ゲッツ不在のうちにジョン・コルトレーンがナンバーワンのテナー奏者になっていました。ゲッツは、それまでのジャズとは違う方向を示さなくてはいけなくなったわけです。一方、ジルベルトとジョビンの音楽はアメリカで認められ始めた時期でした」

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