東浩紀/批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役
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※写真はイメージ(gettyimages)
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 批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。

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 SFアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」(以下エヴァ)が完結した。最後の劇場版が8日に公開されたのである。異例の月曜公開にもかかわらず、初日動員は50万人を超えたという。

 なぜそれほどの注目を浴びるのか。エヴァの基本は少年少女が巨大人造人間に乗り世界を救う単純な物語である。しかし周辺設定が多様な読みを誘発し、つねに問題作であり続けてきた。

 TV版の放映開始は1995年。社会現象になり、阪神大震災やオウム真理教と重ねて語られた。97年の旧劇場版は私小説的なカルト映画で、庵野秀明監督自身が内向的オタクのカリスマになった。21世紀に入ると一転エヴァはクール・ジャパンのアイコンとなり、今度はエンタメの優等生を目指して作り直されることになった。再出発は順調に思えたが、東日本大震災翌年の新劇場版3作目で大きく捩れ、観客を再び混乱に陥れてしまう。その歩みはあたかも日本社会の迷走と重なっているかに見える。

 それだけに完結への期待は大きかった。エヴァは四半世紀の歴史にどう決着をつけるのか。

 驚くべきことに、庵野は見事な結末を用意していた。エヴァは幾度も語り直されている。関連商品や二次創作は無数にあり、伏線もこじれにこじれている。そもそも長い制作期間のあいだに客層も観客の期待もがらりと変わってしまっている。すべての要請に応えるのは不可能に近い。にもかかわらず庵野は困難から逃げなかった。伏線が次々閉じ、登場人物が救われていく最後の展開はまるで魔法のようだ。筆者はその姿勢に、作品の魅力とは別に、じつに深い感動を覚えた。

 本欄読者にはアニメに関心のないひとが多いだろう。にもかかわらずエヴァを取り上げたのはこの姿勢のためだ。

 この四半世紀、エヴァが迷走したように日本社会も迷走を続けてきた。次々に事件が忘却され、リセットだけが繰り返され続けてきた。エヴァ完結編の創作姿勢は、そんな私たちの態度に深い倫理的な問いを突きつけている。

 庵野はエヴァの呪いから逃げなかった。私たちも現実から逃げてはならない。

東浩紀(あずま・ひろき)/1971年、東京都生まれ。批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役。東京大学大学院博士課程修了。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。93年に批評家としてデビュー、東京工業大学特任教授、早稲田大学教授など歴任のうえ現職。著書に『動物化するポストモダン』『一般意志2・0』『観光客の哲学』など多数

AERA 2021年3月29日号