「週刊プロレス」の全日本担当だった筆者も当地に足を運んだ。試合リポートとは別に目的があった。馬場にぶつけたい質問があった。
「猪木さんの引退について、コメントをいただきたいのですが」
開場前の静けさが支配するアリーナに、馬場の怒声が響いた。
「馬鹿野郎! そんなこと言えるか!」
目尻は下がるどころかつり上がっていた。
「オレとは何も関係ありません。何も話すことはありません。ご苦労さん」
黙して語らず。それが馬場流の「送辞」だった。
55歳でリングに別れを告げた猪木とは対照的に、生涯現役を貫いた馬場がこの世を去ったのは99年1月31日。61歳の誕生日から8日後の死だった。
もう永遠に交わることのない2本の道。だが、ほんの一瞬、接点を持ったことがある。
2019年2月19日。東京・両国の国技館でおこなわれた「ジャイアント馬場没20年追善興行」に猪木がゲストとして来場したのである。
馬場の冠がついた大会で猪木の入場テーマ曲が流れたその瞬間、筆者は幻の17試合目に思いを寄せた。マス席で一緒に観戦していた友人と声の限りに「イノキ、イノキ」と叫んだ。猪木の姿は涙でよく見えなかった。
今年2月4日、東京・後楽園ホールで開催された「ジャイアント馬場23回忌追善興行」においても、猪木がビデオメッセージを送るプランがあったと聞く。しかし、猪木の体調不良により実現しなかった──。
1963年8月16日、日本テレビは東京・リキスポーツパレス大会を生中継した。そのセミファイナルに組まれたのが通算12回目の馬場対猪木戦、45分3本勝負だった。
馬場が2‐0で勝利を収めた試合。拙著『誰も知らなかったジャイアント馬場』の執筆にあたり当時の新聞を読み返したが、番組表に馬場対猪木の記載はなかった。それでもおそらくテレビの電波に乗ったと思われる。しかし、のちに映像が発掘された形跡はない。
できることなら見てみたい。でも、闇に埋もれたままでいい気もする。
見果てぬ夢、BI対決。今はただ、あの日の「馬鹿野郎!」が無性に懐かしい。(市瀬英俊)
※週刊朝日 2021年4月9日号