兄貴分からのせん別。猪木は馬場に深く感謝したという。しかし、それはそれ。猪木は永遠の2番手に甘んじる男ではなかった。人一倍、上昇志向が強かった。野心が旺盛だった。
71年5月。当時はご法度だった「同門日本人対決」を猪木は馬場に迫った。
両者は若手時代に通算16回、一騎打ちをおこなっている(馬場の16戦全勝)。17回目が実現すればそれは「ナンバーワン決定戦」となる。
72年に猪木が新日本プロレス、馬場が全日本プロレスをそれぞれ旗揚げすると、企業間戦争の色合いも加わり馬場に対する猪木の挑発に拍車が掛かった。
「いつでもやってやる」と猪木。だが、馬場は日本テレビ、猪木はNETテレビ(現・テレビ朝日)とそれぞれ専属契約を結んでいた。おいそれと一騎打ちが実現する環境ではなかった。
裏事情はもちろん猪木も承知している。その上での挑発。「クリアすべき問題がある」と語る馬場に理はあった。しかし、正論よりもロマンに人は夢を見る。
結局、17試合目は実現に至らないまま時だけが過ぎていった。ファンに印象付けられたのは、物事に風穴を開けようとする猪木の革新性と、馬場の腰の重さだった。
一方で両雄は、常にいがみ合っていたわけではない。79年8月26日に東京・日本武道館で開催された「夢のオールスター戦」では、約7年9カ月ぶりにタッグを結成。89年に猪木がスポーツ平和党を立ち上げ参議院選挙に打って出ると、馬場は「そりゃ、やっぱり当選してほしいと思ってますよ」とエールを送った。
都内のホテルのロビーでばったり遭遇すれば、猪木から歩み寄り数分間の立ち話。筆者も2度ほど居合わせたことがある。
「お互い、本当はどう思っているんだろう」。そんなことを考えながら、第三者の割り込みを許さないふたりだけの世界を、息を殺して傍観した。
98年4月4日。猪木、引退の日。馬場の姿は全日本プロレスの興行開催地である石川県産業展示館にあった。