哲学者 内田樹</p>

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哲学者 内田樹
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 哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。

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 病気と怪我(けが)の予後を養うために、旧友たちと湯治に出かけた。さすが齢古希に至ると五体満足という者はいない。膝(ひざ)が悪くて歩けない、白内障で目が見えない、病後で頭が働かないなどなど老人の愁訴を弱弱しく口にしている。

 ところがいったん慨世の言辞が舌頭に上るや、背筋がしゃんとして口調が熱を帯びるから不思議である。「年を取ると怒りっぽくなる」というが、「怒っているときだけ少しだけ血のめぐりがよくなる」ということなのかも知れない。

 五輪はやるのか、ワクチン接種はいつ始まるのか、中国は台湾に侵攻するのか、日本のシステムはどこまで劣化するのか、話頭は転々としたが、それでも絶望的にならずにいられるのは、長く生きてきたせいで、「たいへんな時代」が前にもあったことを覚えているからである。

 例えば、喫煙者に対する差別。私たちの世代が煙草(たばこ)の匂いに寛容なのは、子どもの頃それが「文明の香り」だったからである。昭和20年代の東京の屋内でいちばんきつかったのは便所から漂う糞便(ふんべん)と外のドブの臭いだった。煙草はそれらの悪臭をかき消す人工的な「消臭剤」の役割を果たしていたのである。いま、煙草を自由に吸ってもいいが、その代わりに昭和20年代の臭気に戻すがどうかと提案されたら、私は断る。

 若い人が本を読まなくなったと嘆く者がいたが、私たちの時代だって似たようなものだった。読まないとバカにされるから、やせ我慢で読んでいただけである。そして、読み終わると今度は「こんなものも読んでいないのか」と人をいたぶる道具に使った。別に先賢の知恵を貪(むさぼ)るように求めていたからではない。またあの時代の読書競争に戻してやろうかと言われたら、私は断る。

 子どもがゲームばかりやっている。あれで知性や感情の成熟は期し得るのかと疑う者がいた。でも、私たちだって飽きずに麻雀(マージャン)をやっていたではないか。高校生・大学生の頃にいったい何千時間を費やしたか。あの無益な時間を学業に投じていたらと後悔したことのない者だけがゲーマーに石を投げよ。

 そうやっていちいちまぜっかえしているうちに日が暮れた。

内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数

AERA 2021年5月3日-5月10日合併号