「日本の歴史」創刊号
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 日本史の”定説”は、研究が進むにつれて更新されている。いまの歴史教科書を開くと、鎌倉幕府の成立は「イイクニつくろう」の1192年ではないし、蘇我入鹿が暗殺された事件は「大化の改新」とは呼ばれない。多くの読者が教わった歴史と違っているのではないだろうか。そんな日本史の”新発見”の一端をご紹介しよう。(後編)

【その7】
織田信長「長篠の戦い」「鉄砲で勝った」はウソ?

 織田信長が鉄砲を使った新戦法で、武田氏の伝統的な騎馬軍団を打ち破ったとされる「長篠の戦い」。信長の革新性を示すエピソードとしても有名だが、実は、鉄砲はさしたる勝因ではなかったという研究がある。
 信長の新戦法は、「三千挺(ちょう)三段撃ち」と言われ、江戸時代に、儒医で作家の小瀬甫(ほ)庵が書いた『信長記(しんちょうき)』がもとになっている。歴史研究家の藤本正行氏によれば、信長の記録として最も信頼性が高い太田牛一(ぎゅういち)の『信長公記』では、もともと「鉄砲千挺ばかり」とあり、「三」の字は後に書き足されたものだとしている。多数ある『信長公記』の写本・伝本をつぶさに見たところ、実際に加筆・誇張されてきたことがわかってきた。
 さらに「細川家文書」などの記録によると、信長は寄せ集めの武将たちに鉄砲隊の指揮を任せていたとあり、あまり鉄砲を重視していない。それよりも武田軍を追い詰めたのは、山と山に挟まれて迂回できない場所を選んだ信長の陣の敷き方にあったという。
 細かい史料研究が進むことによって、いまだに歴史に新しい視点が出てくるという好例だ。

【その8】
信長の「楽市楽座」はパクリだった!

 もうひとつ、信長の革新性を示す例としてよく挙げられるのが「楽市楽座」。「座」と呼ばれる商工業組合の特権を廃止し、安土の城下町に来れば自由に商工業を行えるようにした、有名な信長の経済政策だ。
 だが、この政策は信長が独自に考え出したものではないというのが、研究者の間ではすでに常識だ。
 信長が最初に楽市令を出したのは1567年。だが、はじめて文献として「楽市」という言葉が現れるのは、それより前の1549年、近江国(滋賀県)の戦国大名・六角氏の城下町「石寺」においてなのだ。
 信長は日本史最大のヒーロー。数々の物語やドラマにも描かれ、その人物像はさまざまに誇張されてきた。史料研究が進んだいまこそ、等身大の信長像が見えはじめている、といえる。

【その9】
秀吉は「天下統一」をしていない?

 主君・信長が実現できなかった天下統一を果たしたとされる豊臣秀吉。四国の長宗我部氏、九州の島津氏、関東の北条氏などを攻め、1590年、ついに東北まで支配を及ぼした。
 では何をもって天下統一といえるのか。軍事的に異を唱える者がいないこと。政治的・経済的に列島全土に影響を及ぼすこと……。さまざま考えられるが、秀吉が諸大名の私戦を禁じた平和令だとされてきた「惣無事令」には近年、実効性に疑問の声があがる。「太閤検地」や「刀狩」も、全国的に実施されたわけではないとわかってきた。秀吉といえど、徳川家康や毛利輝元ら、従えたばかりの有力な戦国大名の領地に踏み込んで、厳しい検地が実施できたわけではないのだ。
 一部の地域で、それまでの検地方法を改め、兵農未分離の土豪たちから武器を取り上げるのがせいぜい。なんともいじらしい「天下人」の姿が見えてくる。

【その10】
秀吉の正妻おねと側室・茶々は仲良しだった

 秀吉の世継ぎを産めなかった正妻おね(ねね、北政所などとも)と、秀吉の寵愛(ちょうあい)を受け、秀頼を産んだ側室・茶々(淀)。ドラマなどで不仲に描かれることの多い二人だが、実は関係は悪くなかった、というのが学界の定説となりつつある。
 1598年に秀吉が亡くなると、当初はおねと淀、秀頼はいずれも大坂城内に居を構え、連携して豊臣家を主導した。その後、おねは京都へ移り、出家して高台院を名乗り、淀が秀頼を後見するようになる。これは二人が仲たがいしたわけではなく、おねが隠居し、淀が豊臣家の中心になることを天下に示しただけ、というのだ。
 後世に生きる私たちは、江戸時代のフィルターを通してそれ以前の歴史を見がちだ。だがそこには、信長や秀吉、淀らが極悪人であれば都合がいいという、家康や江戸幕府の「色」がついているかもしれないのだ。

【その11】
江戸時代に日本は「鎖国」していなかった

 外国との交流は江戸時代も続いていたという見方がいまは主流だ。オランダ、中国、朝鮮とは交流を続けていたし、幕府はオランダを通じて、ヨーロッパの状況もかなり正確に把握していた。江戸幕府の政策は、日本人の海外渡航を禁じる「海禁」という制度であり、当時の東アジアでは一般的なもの。江戸期の日本が特に閉鎖的だったわけではないのだ。
 また、「鎖国」という言葉自体、19世紀初頭に初めて使われたもの。ドイツ人医師の書いた『日本誌』という本に、日本の蘭学者が『鎖国論』と邦題をつけたのが最初だった。つまり、江戸初期に3代将軍・家光が完成したという「鎖国」体制は、当時はそう呼ばれていなかったのである。
 ちなみに、江戸時代の地方政治を支えたのは「藩」だと思われがちだが、実は「藩」という言葉は明治期になって初めて公に使われだしたものだ。江戸時代には、もっぱら「○○家」「○○領」「○○国」などと呼ばれていた。将軍の居場所を指す「幕府」が武家政権そのものを指すようになったのも江戸後期のこと。
「鎖国」も「藩」も「幕府」も、後世がつけた「歴史用語」なのである。

【その12】
ペリーの黒船に脅えて開国したわけではない

「たった四杯で夜も眠れず」と歌われた1853年のペリー来航。黒船に驚いて右往左往する幕府のさまなどを笑った狂歌だと、教科書には掲載されている。
 しかし、専門家の間では、幕府が「砲艦外交」に屈せず、国際法を持ち出すなどして欧米列強と粘り強く交渉したことが指摘されている。幕府は「オランダ風説書」などを通じて常に世界の最新情勢を入手しており、ペリーの動静も事前に把握していたというのだ。
 幕府や諸藩は、洋式の軍制改革にも取り組み始めていたが、いかんせん海岸線が長すぎた。また、改革のための資金や意欲、人材が足りなかった。気づいていたのに対策が間に合わなかった、というのが、バランスの取れた評価かもしれない。
 これまで見てきたように、私たちは明治維新や幕府など、フィルターを通して歴史を見てきたところが多い。フィルターを打ち破る「新発見」が、まだまだ歴史には隠れているのだ。

【関連リンク】
週刊「新発見!日本の歴史」記事で紹介したような日本史の常識を覆す新発見・新視点満載のシリーズが新創刊!
http://publications.asahi.com/news/325.shtml