批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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筆者が創業した会社「ゲンロン」ではアートスクールを運営している。昨年夏、その事業パートナーだった美術集団の内部でセクハラ事件が起きた。
弊社は被害者からの告発を受けてただちに調査、集団との契約を解除し、被害者および受講生のケアに取り組んだ。当然の対応だと考えたが、世間の反応は異なっていた。むしろ弊社が契約を打ち切ったことのほうを非難する声が現れたのである。
事件を軽視する動きも現れた。本年1月から4月にかけて京都市京セラ美術館で開かれた「平成美術」展では、当該集団の「資料」がセクハラへの言及なく展示された。ネットで批判が起きたが、主催者も監修者の椹木野衣・多摩美術大学教授も簡単な説明しか発表していない。
ここで問題は展示そのものではない。経緯説明の欠如である。芸術の価値は犯罪とは独立している。展示の是非はセクハラと別に判断されてよい。
けれども事実は事実として記録されねばならない。同展は歴史的記録の意義を強調した回顧展だったので尚更(なおさら)である。その点で主催者らの判断には疑問が残る。
加害側の集団はいちどハラスメントを認め謝罪したものの、有利な和解が成立しないとみるや被害者を訴え返した。それゆえ形式的には係争中となるが、それを理由にセクハラの記載を避けたのだとすれば、結果的に加害側の術中に嵌(はま)ったことになろう。会期内には被害者の支援団体も立ち上がっていた。状況を精査すべきではなかったか。
近年、美術だけでなく、映画や演劇、文学などクリエーションの現場でのハラスメント告発が相次いでいる。そのたびに些細(ささい)な犯罪で才能を潰すなといった擁護論が展開されるが、本質を見誤っている。
本件の加害者は筆者の古くからの友人だった。美術家の彦坂尚嘉氏はそれを理由に、筆者は加害者の「女癖」の責任をとり、芸術運動を守るべきだったとツイートしている。まことに醜悪な主張である。犯罪と芸術は独立している。だとすれば逆に犯罪は犯罪として償うべきである。芸術の名のもとに被害者の声を握りつぶせるような時代ではないのだ。
東浩紀(あずま・ひろき)/1971年、東京都生まれ。批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役。東京大学大学院博士課程修了。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。93年に批評家としてデビュー、東京工業大学特任教授、早稲田大学教授など歴任のうえ現職。著書に『動物化するポストモダン』『一般意志2・0』『観光客の哲学』など多数
※AERA 2021年6月14日号