TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。桜桃忌について。
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今年はコロナ禍になって二回目の桜桃忌だった。
太宰治が玉川上水に入水したのは昭和23(1948)年6月13日。僕の母は中学生だった。本の虫の彼女は時の流行作家の衝撃のニュースを聴いて、たまらずに現場に駆けつけた。母はそのすぐ近く、吉祥寺で生まれ育った。
「三鷹の此の小さい家は、私の仕事場である」(「誰」河出書房『知性』昭和16年12月)と自伝的小説に書いた太宰は、三鷹町下連雀一一三の12坪半の借家に妻子と住み、原稿を書いて、弟子や友人と文学談義をし、冬ならばトンビコートを羽織って三鷹駅と武蔵境駅の間に架かる陸橋から夕陽を眺めた(この橋は現存している)。
僕がラジオ局に入社した年だった。太宰と恋に落ちた作家の太田静子さんが亡くなり、僕を含めて若手社員総出で葬式の手伝いをした。
太宰に『斜陽』の材料を提供した太田さんはエフエム東京の専務、Tさんと親交があった。Tさんは新聞社の文化部出身だった。
弔問には五木寛之さんもいらして、ブラックスーツの五木さんに香典返しの紙袋を渡したのを覚えている。
僕は太宰の熱心な読者というわけではない。でも、地元というよしみもあり、桜桃忌に日程が合えば禅林寺に出向く。
寺の前庭には紫の紫陽花が咲き、その都度何かしら出会いがある。
森鴎外の墓のはす向かいにある太宰の墓前に花を手向ける人、線香に火を点ける人が列をなすのはいつものことだが、今年は思いのほかさくらんぼが多かった。
墓石に彫られた「太宰治」の一文字一文字にさくらんぼがひと粒ずつ埋められている。黒い石に押し込められたさくらんぼの生々しい紅。その色彩が少々奇妙に思えて眺めていると、「私はまだまだだけど、いつかこうしてみなさんのようにさくらんぼを埋めてみたいです」と声がした。